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岡潔「春風夏雨」を読んで思う(1)

まだ全然途中までしか読んでおらず(Kindleで約20%)、にもかかわらず既にところどころ理解できない箇所もあるのだが(笑)、いろいろ思うところがあったので書き留めておく。

春風夏雨 (角川ソフィア文庫)

春風夏雨 (角川ソフィア文庫)

 

 

自分というものがあると思っていることがあるだけ(原文ママ)

 

自分というものは何だろうか。自分は本当に在るのだろうか。在ると思っているだけなのだろうか。

〔中略〕

自分というものは、抑止して消すことができるものだといえる。してみると、自分というものが本来あるのではなく、自分というものがあると思っていることがあるだけだというのが正しいように思える。

- 岡潔 「春風夏雨」

この一節を読んで、思い出したことがある。

まだ小学校低学年の頃だったと思うが、CMで布施明さんの

 

どうして僕は ここにいるのだろう

- 布施明「落葉が雪に」

という曲が流れるのを聞いて、えもいわれぬ不思議な気持ちになった。

自分が自分でないような、自分自身が浮遊しているような、不思議な感覚。
自我を確立する(まあ未だにたいした自我ではないけれど)はるか前だったため、その短い一小節の歌詞とメロディだけで、「自分自身がナニモノであるか」がわからなくなったのかもしれない。

「自分というものが本来あるのではなく、自分というものがあると思っていることがあるだけ」という表現に接したとき、その時の感覚がふいに甦ったのだ。

 

他人の欠点がすぐ目につく人は「小人」

 

〔前略〕この不快感であるが、たとえば便所の臭気、街を走る車の騒音、チクリ、チクリ、チクリと少し間を置いて軽い痛みが長く続くために起る歯痛、胃痛などの耐え難さ、不作法な客と長く対坐している時に起る耐え難さ、これらはいずれも自我が感じる嫌悪感であって、自我本能を抑止して消し去れば、ごく簡単に消えてしまうものなのである。

他人の欠点がすぐ目につくのも嫌悪感のなせるわざで、こんな人を「小人」という。

このように、快、不快による判断は自我の判断である。

もし少しも自我本能を抑止しないで快、不快によって判断すれば、それは獣類の判断でしかない。

- 岡潔 「春風夏雨」

最近はいろいろなストレスが鬱積しているせいか、やたらとイライラしてしまう。

世の中の大半は、マナーや他人の迷惑を一切考えない人間だとわかっていても、そういう人間たちに接する度に「なんとかしてやろう」と思ってしまう。

そんな私は、まさに「小人」である。

混雑した電車の中で、脚を思いっきり伸ばして座るのも自由だ。
人ゴミの中で火の付いたタバコをふかし、挙げ句の果てに火の付いたソレを路上に捨てるのも自由だ。

彼我の人間たちのアタマの中を変えることなど、私にはできないのである。

つまらない自我が凝り固まるにつれ、許せないことばかりが増えていく。

このデカい頭にコビり付いた自我を融き剥がして、楽な心持ちで世間と折り合いたい、とは思うのだが・・・。

(つづく)