モノクロな思い出の中に祖父の姿を見る(1)
今週のお題「一番古い記憶」
私は昭和40年代前半生まれの、福島県は会津の一般庶民の出なので、幼少の頃の写真はほぼモノクロである。ただし、一番古い(つまり一番幼い)写真のみ、カラーである。おそらく、生まれたばかりということで、父と母がフンパツして当時まだ高価だったカラーフィルムを購入したのだろう。
ただし、今手元に残っているカラー写真はたった1枚。よほど高かったのか、よほどケチだったのか、どちらかだ。
なので、写真を元に幼少の頃を思い出そうとすると、その映像はどうしてもモノクロになってしまう。昭和30年代頃までの風景を、なかなかカラーでは想像できないのと同じ理屈である。
「一番古い記憶」と聞かれると、はなはだ曖昧だが、齢50を2年後に控えた今でもはっきりと覚えているのは以下の5つ。
- 一番古いカレンダーの「年」の記憶は「1970」年
- 祖父が自転車で保育所に送り迎えしてくれた
- 入院していた祖父の見舞いにイヤイヤ行った
- 5歳の時に庭でひとりで自転車の練習をした
- 5歳の時に亡くなった祖父の葬式
この先、加齢とともに記憶が薄れていくかもしれない。いい機会なので、ひとつひとうの思い出を詳しく書き留めておこう。
一番古いカレンダーの「年」の記憶は「1970」年
私は、物心がついた頃には2段ベッドの下の段に寝ていて、その枕元に貼ってあったカレンダーが「’70」となっていた覚えがあり、それが一番古いカレンダーの記憶である。私は1967年生まれなので、当時3歳。
その頃はもちろん「今は西暦何年」なんていう認識はなかったはずなので*1、それが何の数字なのかはわからなかったと思うし、はたして当時数字が読めたのかどうかも、確たる自信はない。
ただ、5歳と6ヶ月の時に亡くなった祖父がまだ全然元気だった頃、
テレビに映し出された「海外ニュース」という番組タイトルを、私が「かいがいにゅーす」と読んだのを祖父が耳にして、「この子は神童だ!」と騒いだ
という逸話(笑)はずっと実家で語り継がれていたので、おそらく3歳の頃には数字ぐらいは読めたのだろう。
ちなみに私には子供がいないので、3歳児の平均的知能レベルがどれほどなのかがわからない。
なので、このサイト▼で確認したら、どうやら3歳児は「『1~5』まで、一つずつ数えることができる」のがフツーらしい。
ま、「21世紀の”必死コイた”幼児教育」と「昭和40年代のクソ田舎の放任教育*2」では世界が違いすぎるので、参考にはならないかもしれないけど。
祖父が自転車で保育所に送り迎えしてくれた
祖父が元気だった頃は、近所の保育所(”園”ではない)に自転車で送り迎えをしてくれていた。ただ、
「おめえがちっちぇ頃は、じいちゃんが自転車で保育所に連れてってたんだぞ*3」
と、祖母か親戚の婆さんか誰かにずっと聞かされていたので、それがはたして自分自身の記憶なのか、後年になって「合成された」記憶なのかがはっきりしない。
母親がフルタイムで働いていたため、実家では3歳から保育所に通わされていた。さらに祖父は5歳の年の12月24日に食道ガンで亡くなっており、その年はもちろん、前年には既に元気ではなかった可能性が高いので、もし自分自身の記憶であれば、この「祖父の自転車に乗って保育所に行った」記憶も「1970年のカレンダー」と同じ年で、一番古い記憶ということになる。
しかも、ただの数字の記憶なんかじゃなくて、「ダボシャツにステテコの老人が、自転車に孫を乗せて走る」という、なんとも昭和な、心温まる風景の記憶となるのだが・・・確固たる自信はない。
▼イメージ図
画像出典:Amazon.co.jp | ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]
入院していた祖父の見舞いにイヤイヤ行った
上述のとおり、さんざん祖父に世話になった私であるが、 ある夜、親戚の婆さんか誰かの「見舞いに行くから来い」という誘いを、泣きながら拒否した記憶がある。
理由は、「帰ってきたウルトラマン」が見たかったから(笑)。
家庭用ビデオテープレコーダーなんてモノはまだ一般的でなく*4、テレビはナマで視るしかなかった時代である。
しかも、「帰ってきたウルトラマン」は、当時の私にとって、ナニモノにも代え難い最大級のエンターテインメント・プログラムであった。しょせんは4歳のクソガキである。病院にいるジイさんに会いに行くことより、ちっちゃいテレビの中のウルトラマンの方がはるかに大事だったのだ。
結局、「帰ってきたウルトラマン」を見終わってから、見舞いに行ったと思う。
Wikipediaによると、「帰ってきたウルトラマン」は
1971年(昭和46年)4月2日から1972年(昭和47年)3月31日にTBS系で、毎週金曜19:00 - 19:30に全51話が放送された特撮テレビ番組。
とある。都市部なら、疑いなくこの時期だと特定できるのだが、私が育ったのは、昭和40年代の福島県である。民放のテレビ局は2局しかなかったのである。
はたして、キー局(TBS)と同じ時期に放送していたのだろうか。
せめて、祖父がいつ頃の時期から入院していたかがわかれば、放送時期も特定できるのだが、父も母ももうこの世にはおらず、4歳上の兄貴がもしかしたら覚えているかもしれないけれど、仲がよろしくないので気軽に聞くこともできない。
ただ、19時から放送していたことははっきりと覚えているので、キー局と同じ時期であった確率の方が高いだろう。
ちなみに、その時の茶の間の風景はうっすらと覚えているけれど、祖父がいた病室の様子は、まったく覚えていない。
(つづく)
*1:しかも昭和の頃、「年」は「昭和何年」で数えることの方が多かった
*2:ただ、後述の保育所で何某かの”教育”は受けたかも知れない
*3:会津弁が思い出せない・・・
*4:1960年代、既にソニーが発売しているが非常に高価だった