子供たちが植えた花を見て、その未来を想う
子供たちが日本橋に植えた花
新日本橋駅を降りて三越方面に歩いていくと、きれいな花が目に入る。地元の小学生が植えたのだと言う(そう中央のプレートに書いてある)。グレーに沈んだ街の中で、黄色や橙色のコントラストがひと際美しく、その花の名前も知らないくせに、往来の眼も気にせずにしゃがみ込んで写真を撮るのであった。
こんなところで小学校時代を過ごせるなんて、田舎者の私から見ればうらやましい限りだが、それは単なる田舎者のひがみであって、”まったく”と言っていいほど自然がない場所で、こうしてわずかな自然に触れる機会を大人たちに与えられるというのも、それはそれで不幸なことかも知れない。
これを植えた子供たちが成人を迎える十数年後は、この国はいったいどうなっているのだろう。
ふと、そんなことを想いつつ、雑感を書き繋ぐ。
沖縄のことを想う
沖縄の「辺野古基地移設問題」が、現在大変なことになっている。
と、ここで滔々と持論をぶてる程に知識を蓄えているわけではないので表面的な事象を書くだけに留めるが、どう見ても国のやり方というのは、横暴極まりない。
沖縄県の翁長知事は、県民の積年の思いを、必死に代弁しようとしているのだろう。「沖縄だけに基地を押し付けるな」と。
アメリカとは、我々が知らされていない「密約的な何か」があるのだろうし、すぐ隣を見れば、21世紀の大国・中国の脅威もある。だから沖縄に基地を作らざるを得ない事情はあるのだろうが、だからと言って、あれだけ強硬に「異」を唱えている人を、さらにそれ以上の力でねじ伏せようとするのは、もはや「異常」としか言いようがない。なぜ、「話し合い」で解決しようとしないのだろう。
為政者が「力」に物を言わせて自分たちの政策を押し通すような国には、「力」を持った人間たちのくだらない犯罪がはびこるだろう。
翁長知事には、その流れを食い止めるためにも、どうかがんばって欲しい。
ただ、こういった▼報道もあるけれど。
”正義”はいったいどちらなのだろう。
カルロス・ゴーン氏、自動運転について語る
日本シリーズの、最終回の息詰まる攻防を見た後(おもしろかった!)チャンネルを切り替えたら、「報道ステーション」に日産の社長兼CEOであるカルロス・ゴーン氏が出演していた。
私は日産車ユーザゆえ、ぜひ最初から視たかった。残念。
そのゴーン氏が、「自動運転車の可能性」について熱く語っていた。
ちなみに、同時通訳者の女性の、早口でまくし立てるような声がゴーン氏の声と被って、非常に聞きにくかった。時間の制約もあって両者の声を同時に流したのだろうが、ゴーン氏側のボリュームを絞るなり、制作側はもっと工夫すべきだっただろう。閑話休題。
ゴーン氏いわく、「渋滞のときは、誰も運転したくないでしょ?」「峠や山道に行ったら*1、自動運転を解除して、自分で運転を楽しめばいいのです」とのことだった。
なるほど、そうか。
確かに、渋滞時は、自分で運転する意味(つまり喜び)などまったくない。あれほど苦痛で、無駄な時間というのもそうそうないだろう。それは先日、三重・和歌山に行った帰りにも痛感したことだ。
私のように取るに足らない人間ならともかく、一分一秒もムダにできないような超一流の人間であっても、渋滞に巻き込まれたら同じように時間が無駄になる=社会的損失が生じてしまう。
そして自動運転車は、”のべつ幕無しに”自動運転なわけではないのだ。それを解除すれば、現在のクルマと同様、自分で存分に運転できるのである。
なんとすばらしい。
そしてさらに、「自動運転になれば、事故の90%はなくなります」とも語っていた。
今日も、宮崎で高齢者による悲惨な事故があった。
高速道路等での逆走も頻発しているし、そろそろ高齢者に対する「運転資格検査」を真剣に検討しなければいけないだろう。
まあそれはともかく、そんな高齢者に対しても、自動運転車は有効なのである。
なんと頼もしい。
技術の進歩は、これからも子供たちに明るい未来をもたらすことだろう。
それに対して、為政者のやることなすことが、ことごとく”ヨクナイ”方向に向かっている気がするのは、悲観主義に過ぎるだろうか。
*1:言葉は違ってたと思うが、イメージとしては大体合ってる