Honda Collection Hall 訪問記・四輪レース車篇(1):ホンダF1黎明期と「Powered by HONDA」
実にこれで通算15回目の「Honda Collection Hall (以下“ホンコレ”)」訪問記。そしていよいよ、最終エピソードの「四輪レース車篇」である。
- レースに興味がなくても楽しめる
- ASIMOスーパーライブ中が狙い目
- 日本最初のF1マシン「ホンダ RA271 (1964)」
- 「F1第1期」のその他のマシン
- F1第2期の代表的マシン
- レーサーの肖像と預言者の話
レースに興味がなくても楽しめる
自分でも飽きるほど何度も書いているが、私は二輪も四輪も「レース」というものにほとんど興味が無い。ナマで観たことはもちろんないが、テレビで観る限りはまったくオモシロいと思わない。
二輪の方はまだ「抜きつ抜かれつ」みたいな展開があったりするので多少はオモシロいと思わなくも無いが、四輪、特に「F1」でそういう展開を目にしたことはほとんどない。景色も単調なサーキット *1 の、同じところを何度もグルグル廻って、しかも勝つチームが大体決まっている。熱狂する人達は、いったい何に面白味を見出しているのだろう。
というワケで、四輪レース車を現地で目にするまではまったく期待していなかったのだが、新旧/ジャンル様々にとり揃えられた圧巻のマシンの数々に、思いの外コーフンしてしまった。やはりイチクルマ好きとして、実際にナマのマシンを目にすると、そこに込められた開発者達の熱い想いを感じずにはいられなかったのだ。
こんな私でさえコーフンするのだから、レース好きの人が見たら、ソットーしてしまうのではないだろうか。
ASIMOスーパーライブ中が狙い目
私が「ホンコレ」3階北棟の四輪レース車展示コーナーに足を踏み入れたのは15時10分頃、ちょうど「ASIMOスーパーライブ」が始まろうとする時間帯 *2 であった。
まだ全然寒い2月の平日ということで、それでなくても来場者は少なかったが、その少ない来場者が皆「ASIMOスーパーライブ」に移動したらしく、3階北棟・南棟は人っ子ひとりいなくなった。「ホンコレ」でクルマ/オートバイをゆっくり見たい人は、「ASIMOスーパーライブ」の時間帯を狙って行けばいいだろう。
(▲「動かないASIMO」はいちおう“ざっと”見て、写真に収めてきた)
私もASIMOが動くところを見たい気持ちはあったが、それよりもイチクルマ好きとして、四輪レース車を見学する方を選んだ。なぜなら私が「ホンコレ」を訪れた2016年2月12日は「閉館時間=16時」、つまり残り時間がもうわずかで *3、どちらか一方を選ぶしかなかったからだ。
いま「ホンコレ」のスケジュールを見ると、3月下旬からは閉館時間は早くて17時、GW中は19時半(!)なんて日もあるようだ。
これからの時季なら、私のように無調査かつ無計画で出かけて行っても、館内のすべてをゆっくり見学することができるだろう。
日本最初のF1マシン「ホンダ RA271 (1964)」
1階ロビー中央のステージに置かれていたのは、F1で初優勝を飾った「ホンダ RA272 (1965)」。
こっちはその前の型で、1964年シーズンに3戦だけ参加した、ホンダ、延いては我が国最初のF1マシンである。
エキゾーストパイプの“つっかえ棒”がセツナサを誘う。
この角度から見た、伸びやかなスタイリングが好きだ。
15分も座っていたらケツが痛くなりそうなお粗末なシートに、見るからにタッチの悪そうなシフトレバー。昔の人はガマン強かった・・・というか、“快適”なものなど、世の中に存在しなかったのだ。
例えば、音楽を聴くにもノイズだらけのレコードやAMラジオしかなく、ケツを拭くにもザラザラのチリ紙しかなかった。それが昭和という時代であった・・・って、なんの話だよ(笑)。
エキゾーストパイプ・エンドの「H」マークに注目。バッテリーがこんなところに積まれているのは、重量配分の追究がまだ発展途上だったからだそうだ。
ま、このマシンの詳細は、こんなブログよりもホンダ自身によるこちら▼のサイトに詳しい・・・という究極の自己否定。
「F1第1期」のその他のマシン
最初期のマシンである「RA271・RA272」は雑誌やテレビ等で何度か目にしたことがあって昔から知っていたが、この3台は恥ずかしながらその存在さえも知らなかった。
ホンダ RA273 (1966)
3リッター・V型12気筒・DOHC48バルブ(!) 。日本国内では「60年ぶりの丙午」だなんだと過去の因習について騒いでいた年 *4 に、ホンダはこんなスゴいエンジンを積んだF1マシンを造りだしていたのだ。
いま写真を見て気づいたのだが、このド迫力のエンジンを後方から撮ってなかった。後述の中嶋悟およびアイルトン・セナのマシンについ気を取られてしまったのだ。こういう機転の利かなさが、ブロガーとして伸び悩んでいる所以のひとつだろう。
ホンダ RA300 (1967)
自分とタメ年のF1マシンがあったことを、ここで現物を見て初めて知った。
もうじき50歳になる、いまだ迷える(私だけ?)1967年生まれのおっさんを励ます意味でも、F1「2勝目」をもたらしたこのマシンを、ホンダはもっとアナウンスすべきだろう。
ホンダ RA301 (1968)
シンプルな鳥居みたいな、場末の公園に置いてあるベンチみたいなリアウイングが郷愁を誘う。このマシンを最後に、ホンダのF1参戦第1期は終わりを告げる。
F1第2期の代表的マシン
ホンダF1の第2期は、エンジンのみの供給である。中途半端な形でのF1参戦を、いわゆる「Powered by HONDA」というテイのいい修飾子でゴマカしたわけだ。でも得意分野に特化してF1に参戦したことが、第2期の10年間 (1983~1992) で「通算69勝」という輝かしい成績をもたらすことになったのだ。
ロータス ホンダ 99T (1987)
日本人初のF1レギュラードライバーである中嶋悟が駆ったマシンとしてあまりにも有名。当時私は生きるのに精一杯でF1どころではなかったが、日本中で「F1ブーム」が巻き起こったこともあって、さすがに中嶋悟とこのマシンの存在ぐらいは知っていた。
まあただ、知っていたのはこの“キャメルカラー”ぐらいで、コンストラクターが「ロータス」だったことは「ホンコレ」で初めて知ったのだが(笑)。
マクラーレン ホンダ MP4/7A (1992)
ホンダF1第2期の最後を飾ったマシン。
日本人にもっとも愛されたF1ドライバー、アイルトン・セナの印象がどうしても強いが、1992年シーズン最終戦のオーストラリアGPで、ホンダF1第2期最後の勝利をもたらしたのは、“伏兵”ゲルハルト・ベルガーだった・・・
ということを、いま調べて初めて知った。
レーサーの肖像と預言者の話
上述の「RA271」の写真を見てもらえればわかると思うが、 四輪レース車コーナーの柱には、ホンダの手がかかったマシンを駆った、歴代レーサー達の写真が飾られていた。
レース界にはとんと疎い私は、そのほとんどを知らなかったわけだが、さすがにこの人の写真の前では立ち止まって、しばらく見つめてしまった。憂いを湛えたその眼差しは、ヘルメット越しでもじゅうぶんに美しい。
アイルトン・セナと言えば今でも思い出すのが、ちょうどセナが上述の「MP4/7A」を駆っていた、1992年の出来事だ。
当時私は「練馬区土支田」という、畑が点在した東京23区内でもダントツに田舎な地域 *5 に住んでいたのだが、近所に精神的な病を抱えているらしい若い男がいて、夜な夜な大きな奇声を発しては、界隈の平穏を乱していた。
ある日の深夜午前2時頃、その男の声がまた響いた。
「セナァ~ どうして死んじゃったんだよ~ セナァアァ~」
いつもの奇声とは明らかに異なる、心の底から死んだ人を悼むような、悲しみに満ちた声だった。
「えっ!?セナ死んだの?」 ただならぬ“ニュース速報”に叩き起こされた私は、当時いっしょに暮らしていた人とテレビで真偽の程を確かめた。その時点でも、夜が明けてからも、そんなニュースは一切流れなかった。
セナが事故で本当に亡くなったのは、それから2年後のことだ。イカレた彼が、そのときなぜセナの死を近所に“流布”したのかは知る由もないが、“預言者”である彼には、正常な人間には見えない何かがきっと見えたのだろう。
こうやって文字に起こすとくだらない話かもしれないが、当時の彼の声が強烈に耳に残っていたので、セナの訃報を聞いたとき、背筋が寒くなったのは事実だ。
あれから24年が過ぎた。今でも彼は元気だろうか。今でも土支田で平和に暮らしているだろうか・・・って、ホンダもセナも全然関係なくなっちゃった。
(以上敬称略)(つづく)