福島県浜通りツーリング:2016年4月16日:中篇
塩屋埼灯台で出発の準備をしていると、1台の大型観光バスがやって来て、老若男女さまざまな人達が一斉に駐車場に降りてきた。
閑散としていた周囲が一気に賑わった様を見て、「被災地でもあるこういった施設に観光客が訪れることは、とてもいいことだ」と思った。
ただ私が滞在している間は、今回のように誰も来ないのが理想ではあるが。
避難指示区域を行く
国道6号線の警告
国道6号線に、オートバイが通れない区間があることは知っていた。知ってはいたが、「それがどの辺りで」「どんな感じで止められるのか」「迂回路はどこにあるのか」そんなことも知りたかった。
「二輪通行禁止区域」のまだ全然手前(「69km先」って・・・)なのに、こうして▼電光掲示板には警告文が表示されていた。
この警告は、通行禁止区間まで延々と続く。
途中で国道6号線を逸れて、通行禁止区間の“始点”がある富岡町にアクセスを試みる。
富岡町は、何の予備知識もなかった3年前にたまたま通りかかって、無人と化した町の惨状に心を痛めた場所である。
楢葉町での検問
「この先」
「検問中」
「福島県警察」
場所は、楢葉町にある「ぼらぐち商店」という、田舎ではかなり大きめの商店の真ヨコ。
「ぼらぐち商店」はもちろん無人で、周囲にもヒトケは無く、ダンプを始めとした工事関係車両だけがひっきりなしに通り続けていた。
(検問があるだけで、その先には行けるのかしら)という安易な考えに基づき、構わず先に進む。
検問所の手前で、まず若い警察官Aにまず止められ、
「この先は許可証がないと通れません。向こうの検問所で指示に従ってください」
と言われる。この警察官Aは、ずいぶん低姿勢で感じが良かった。
検問所に行くと、先程の警察官Aよりは生意気そうな、これまた若い警察官Bに免許証の提示を促され、さらに職務質問される。
- B 「今日は何の目的でコチラに来たんですか?」
- 私「旅行です」
- B 「(鼻で笑いながら)旅行のついでに、『福島第1原発でも見に行こうかな』って感じですか?」
- 私「いや、別にそういうわけじゃないけど」
福島第1原発に何の許可もなく近づけるはずがないことなど、日本人なら誰でも知っている。ちょっとコバカにしたような聞かれ方だったので、キレ気味で答えてしまった。オトナゲなかった。
- B 「この先には福島第2原発があるんですよ、それ知っててココに来たんですか?」
- 私「いえ、ぜんぜん知らないです」
警察官Bによると、「福島第2原発」へのアクセスは「第1」同様に厳しく制限しているらしい。
東京電力の発表によれば、第2原発では既に原子炉内からの燃料取り出しはすべて完了していて、安全な状態だそうだ。
では「なぜ一般人のアクセスが制限されているのか」、それは“素人”の私はわからないが、現在、第2原発では原子力災害が発生した際の様々な訓練を行っていることと、何か関係があるのかもしれない。
警察官Bは会話をしながら、私の免許証の隅から隅までメモに取っていた。住民票は既に横浜市に移しているが、免許証の住所はまだ変更していない。でもそれを説明すると長くなりそうなので、黙っていた。
もし、当日富岡町で空き巣被害でもあれば私がいちばんに疑われるだろうが、何も起きなければいちいち情報の照会などしないだろう。
ちなみに、「写真撮っていいですか?」と検問所を指差しながら警察官Bに聞いたら、「写真はダメなんですよ~」と断られた。離れてから望遠で撮ろうとも思ったが、追いかけて来られでもしたら面倒なので自粛した。
富岡町内で復興の足音を聞く
楢葉町の検問所でUターンさせられた後、富岡町の町内へ。建築途中のまま放置された住宅が目に入る。
棟上げして断熱パネルの取付けも終わって、「さあいよいよ、新居での暮らしが具体的になってきた!」って頃に震災が発生し、工事が中断してしまったのだろう。
放置されて、ただ傷むに任せている家が、とても悲しかった。私も最近家を買ったので(中古だけど)、建て主の方の落胆はいかばかりだったろうと心が痛む。
その隣には町立富岡保育所があった。こんなステキな保育所に通えなくなってしまった子供たちは、皆きっと寂しい想いをしただろう。子供だから、そんなことはもう忘れちゃってるだろうけど。
でも、子供はそれでいいのだ。
子供たちの姿が消えた“所庭”で、シマウマ(?)が寂しそうに虚空を見つめる後ろ姿が印象的だった。
3年前に訪ねたとき、こういった路地は路面がボロボロで、オートバイでさえ走るのに難儀したが、一時帰宅される方々のための措置なのだろう、今はとてもキレイに整備されていた。
こんなふうに整備された道路と、一時帰宅した際にきちんとメンテナンスされているのだろうか、ものすごくキレイな建物もあって、ようやく避難指示区域でも、復興が進み出していることを感じた。
国道6号線に戻って、3年前、もっとも印象に残った場所に向かう。
▼2013年7月14日。
当時はヒトケが無いのはもちろんのこと、クルマの通りも少なかった。伸びるに任せた雑草が、この場所に関わる人間がいないことを物語っていた。
そして、▼2016年4月16日。
ヒトケが無いのは相変わらずだが、キレイに刈り取られた雑草や車線が整備された道路に、人の手が関わっていることを感じる。そして、復旧・復興工事現場に向かっているのだろう、ダンプの交通量が恐ろしく増えた。
ちなみにこの場所は、福島県内各所のライブ映像を配信している「ふくしまの窓から」における、「富岡」のライブ配信ポイントに程近い。歩道橋に張られた「富岡は負けん!」の横断幕が心を打つこのライブ映像では、国道6号線をひっきりなしに走る工事関係車両の様子がよくわかる。
それでも復興への道は遙か遠く
3年前、ただの廃墟に過ぎなかった「サンデンキ 富岡店」の店内には、灯りが点いていた。
(なんでデンキ点いてんだろう?)と不思議に思って近づくと、この建物は「富岡町民立寄り所」として使用されていた *1。
入口ヨコの看板には「除染工事に関する情報を公開しています-富岡町JV工事事務所」と書いてある。
私がこの周囲にいた約15分間、工事関係者と思しきスタイルをした方は3名ほど見かけたが、一般の町民らしき人の姿はなかった。
富岡町が昨年 (2015年) 7月に発表した「富岡町災害復興計画 (第二次)」によれば、2014年度の富岡町民意向調査で次のような結果が出ている。
- 現時点で「戻りたい」と考えている・・・11.9%
- 現時点で「戻らない」と考えている・・・49.4%
さらに付け加えると、「戻りたい」と考えている人は年々減り続け、「戻らない」と考えている人は増え続けている。
富岡町の現状を見て思う
私が会津地方で暮らしていたガキの頃、「富岡町」というのは名前さえ知らなかったが(すみません)、こうして何度か訪ねてみると、すぐ傍に太平洋が広がり、周囲には緑も豊富で、こぢんまりとしたとてもいい町だと感じる。
3年前に初めて訪れてからは、上述のライブ映像をときどき見ているのだが、真冬でも晴れていることが多く、「画」だけでも温暖な気候であることがわかる。
地震や津波の被害は当然それなりにあっただろうが、あの原発事故さえなければ、人々はこの町で、何も変わらない幸せな日々を送っていたはずである。
原子力発電所が「必要悪」であることは、現状では否定できない事実だ。ただそれは、「100%安全」と言い切れる状態で運転されなければならない。
地域住民に「津波による電源喪失の危険性」を指摘されていたにも関わらず、コストを理由にその声を無視し続けた東京電力のようなアホ企業 *2 に、その運転が任されることが決してあってはならないのである。
(つづく)