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「住めば都」をふり返る (1):紫荘と吉祥寺の思い出

横浜市戸塚区に引っ越してから、はや3週間が過ぎた。引っ越すまでは(戸塚かあぁ・・・)なんて思っていたが、「住めば都」とはよく言ったもので、慣れてくるとこの土地はこの土地で良い面もいろいろある。

19歳になる年に「会津坂下町」という東北の片田舎から上京してから、約30年間に渡って

  1. 東京都武蔵野市吉祥寺
  2. 東京都三鷹市牟礼
  3. 東京都練馬区関町南
  4. 東京都練馬区土支田
  5. 東京都調布市多摩川
  6. 東京都多摩市鶴牧
  7. 神奈川県川崎市幸区

そして、現在の横浜市戸塚区と移り住んできた。

(どんな場所も「住めば都」だったなあ・・・)
・・・なんてことは全然無くて、どうしても住環境に馴染めずに、一年足らずで引っ越した土地もある。

喜びも悲しみも幾年月、今回は「持ち家」ということでオイソレとは引っ越せないので、戸塚区をより好きになるためにも、昔の「住めば都/住んでも田舎」についてふり返ってみる。



 

「住めば都の紫荘」

住めば都のコスモス荘」というライトノベル/マンガ/アニメがあるらしい。ATOKで「すめば」と打ったら、予測変換候補として表示された。私はラノベもマンガもアニメもまったく興味がないので初見だったが、なかなかゴロがいいタイトルなので、パクらせてもらう。

高校を卒業した年の7月頃だっただろうか。同級生達と都内で会った時、「どこ住んでんの?」と聞かれて「キチジョウジ」と答えたら、「おおぉぉ〜」と驚かれた。「オシャレなとこに住んでんな」という驚きだったらしい。

実際は、「①風呂ナシ ②6畳ヒト間 ③木造モルタル」の三重苦揃ったオンボロアパートに、しかも兄貴と二人で住んでたのだが。吉祥寺のいちばん外れ、吉祥寺本町4丁目にあった「紫荘」は、決して「住めば都の紫荘」などではなく、私にとっては、住み始めてから引っ越すまでの1年間ずっと「仕方なく帰る場所」であった。

実家は広大で、自分の部屋だけでも12畳はあったので、「6畳ヒト間+キッチン0.5畳」の超狭隘な空間に兄貴と二人で暮らす生活は、息が詰まりそうだった。自分では気づかなかったが、精神的にはかなり参っていたと思う。

当時は予備校生、平たく言うと「浪人」という身分で、勉強もしていたつもりだったが、結局、志望の大学には入れなかった。それから私の迷走人生が始まるのだが、それは怠惰な生活をしていた高校の時から既に下地ができており、「紫荘」という劣悪な環境に住んで精神が疲弊したことによって、既定路線となってしまったのかもしれない。

 

タイムマシンで紫荘に帰る

2011年8月に「思い出巡りツーリング」で現地を訪れたとき、紫荘は影も形もなくなっていた。
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(▲写真がヘタクソ過ぎて何の説明にもならないが、右側が紫荘があったところ)

でもその何年か前にGoogleマップおよびストリートビューで見たときは、まだ健在だったのだ。「ハウスバイオレット(笑)」と名前を変えて。シャレた名前にしたつもりなんだろうが、見た目は昔のまんまの木造モルタル・ボロアパートだった。

・・・とここまで書いて、ストリートビューには「タイムマシン機能」があることを思い出した。

このストリートビュー▼のタイムスタンプは、2009年7月。

2階のいちばん奥、ひとつだけ違う方角を向いているドアが、私たち兄弟が住んでいた部屋である。2階に上がるための鉄の階段は、部屋からいちばん遠い所にあるくせに、雨が降るとやたらうるさかった。角部屋なので2面に窓があったが、そこからは隣家と銭湯(亀の湯)の壁が見えるだけだった。

白い壁も鉄の階段も安っぽいドアも便所の小窓も、1986年当時と何ら変わっていない。超人気タウン(笑)吉祥寺において、こんなボロアパートがつい最近まで残っていたというのは、本当に驚くべきことである。

 

ストリートビューで懐かしの吉祥寺を旅する

この記事のためだけに遠路はるばる吉祥寺に行くガッツはないので、ストリートビューで思い出の場所を振り返る。ストリートビューの画像を埋め込むと、スマホではスクロールしづらくなることは知っているが・・・ま、何卒ご容赦願います。

紫荘(跡地) 

紫荘があった所は、「メゾン幹庵」というコジャレたアパートになっていた。たかが40㎡・1LDKの木造アパートなのに、とある不動産屋のサイトによると「家賃13万円(管理費込)/月」だそうだ。たっけぇ・・・さすがは超人気タウン(笑)吉祥寺である。

亀の湯(跡地)

上述のとおり紫荘は風呂ナシだったが、「亀の湯」という銭湯が隣にあったのは、言わば「不幸中の幸い」であった。

1986年当時の入浴料金は270円。なんせ貧乏だったので、その程度のカネでさえ切実な出費だった。記憶を確かめるために調べてみたら、今や都内の入浴料金は460円だという。ウチ風呂のない人達は大変だ。

そんな亀の湯はとっくの昔になくなっていて、その広大な敷地をまるごと使って、この一帯ではやや大きめの、これまたオシャレなマンションになっていた。

中道通り商店街」を通り過ぎても、今は亡き小田急系のコンビニ「マルシェ」とか、店名は忘れたけどメンチカツがおいしかった肉屋さんとか、昔はこの辺りまでポツポツと店があったと記憶しているが、さすがは超人気タウン(笑)、今やすっかりマンションだらけになってしまったようだ。

生協(コープみらい「ミニコープ武蔵野店」)

残り2つの場所は、まだ現存しているらしい *1。思い出の場所が、昔と変わらずにそこにあるというのはうれしいものである。

ここの生協には、定期的に食料品を買いに来ていた。19歳の時は毎月約2万円(笑)で暮らしており、食費にかけられる金額も非常に限られていたので、貧乏人にやさしい生協の存在はありがたかった。

「5尾1パック」で100円(!)のイワシが、貧乏な19歳の定番であった。

この記事▼によると、1980年代後半はマイワシが年間400万トン前後の漁獲量があり、単価は20円以下だったようだ。

style.nikkei.com一時期、イワシが「高級魚」などと取り沙汰された時期があったが、「5尾一パック=100円」の記憶が鮮明に焼き付いた私には、到底信じがたい話だった。

理容「椿」

椿床屋は、 行きつけの床屋であった。おしゃべり好きな店主は、仕事をしている間いつもしゃべり続けていた。
ある日、私の髪を切りながら店主が言った。

「オニイサンは50歳ぐらいまではハゲないよ」

何百人か何千人かは知らないが、数多くの頭髪の“変遷”を見続けてきた店主は、「若い頃の頭髪/頭皮の状態で、将来的にハゲるか否かがわかる」と言った。

店主の“予言”どおり、今年で49歳になるが、私はまだハゲていない(毛髪のボリュームは確実に減ってきているが)。

店主は当時40代ぐらいだっただろうか。まだ現役で店に立っているのだろうか。それとも、後継者がいるのだろうか。ぜひ一度、「“予言”どおりハゲませんでしたよ」と報告に行ってみたいと時々考えるのだが、まだ実行には移していない。

 

初雪や バブル景気の 蚊帳の外

1986年のクリスマスが近くなると、近所にあった「横河電機」のデカいモミの木 *2 にイルミネーションが飾られた。

さらに三鷹駅の方に歩いて行くと、「女子学生会館」なる建物があって、その高級そうな佇まいに(金持ちの娘どもが住んでるんだろなあ)なんていつも僻みながら見ていたが *3、僻み根性ゆえか、そこもより一層“きらびやかさ”を増したように見えた。

私は、そういった“キラキラしたもの”とは一切無縁だった。毎日が鬱屈として、かつ悶々としていた。

迷走人生の始まりを、すべて住環境のせいにするつもりは毛頭ないが、当時の複雑な感情がよみがえるたびに、「やっぱ住むところは大事だよなあ」という思いを強くするのである。

(つづく) 

 

*1:少なくとも、ストリートビューのタイムスタンプである「2015年3月」までは現存していたはずだ

*2:実際にモミの木だったかどうかはもちろん確認していないが

*3:いま費用を確認したら、特に“高級”ではなかった