四国・九州ツーリング2017~5日目前篇:灰と企業犯罪

2017年の四国・九州ツーリングもいよいよ大詰め。5日目(5月2日) は、4年前に行きそびれた2つの場所に行ってみたのだが、相変わらずのノープランが裏目に出て・・・。

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ベッセルホテル都城の朝

前回書いたとおり、5月1日に「ベッセルホテル都城」で割り当てられた部屋は1階であった。カーテンを開けても、駐車場と、そこに駐まっている他人の大衆車がただ見えるだけである。

これは▼前日に宿泊した「ホテル トパーズ 大在駅前」からの眺め。
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「ここに泊まることはもう二度とないだろう」と思えばこそ、こんな▲ツマラない景色でも何か特別な・・・まあ「特別」は言い過ぎだが、少なくとも窓から俯瞰で見下ろすその土地の景色というのはホテル泊の楽しみのひとつなので、それが欠けてしまったのは少し寂しい。

ただ、部屋から「10歩」も歩けば1Fラウンジにアクセスできて、無料(というフレコミの、実際は宿泊料金に含まれている)朝食サービスが気軽に受けられるのは大きなメリットであった。
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(ちなみにこの中▲では、牛乳がいちばんウマかった。ここの牛乳は濃厚でおいしい!)

ホテルの案内に「ラウンジが混雑している場合は食事を部屋に持ち込んでもOK」と書いてあったので混んでたら部屋で食べようと思っていたが、ひとりで来ているのは私の他に2人ぐらいでカウンター席はガラガラだったので、ゆっくりと食事することができた。

例によって、前日の15時半過ぎに楽天トラベルの評価ポイントだけを基準に決めたホテルだったが、1階ということで隣室は1つしかないせいか音漏れも皆無で、部屋も快適だった。
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駐車場も広大で駐めやすく、クルマで来るには最適なホテルだろう。
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桜島でのテイタラク

桜島へ向かう

前日の寝不足を解消するために四度寝ぐらいして、のんびり朝食を摂って、ちんたら身支度していたら、ホテルを後にしたのはなんと午前9時であった。事程左様に、たかだか5日目にしてすっかり旅を続ける気力がなくなっていたのだ。ガキの頃は「木枯し紋次郎」に憧れていた私であるが、どうやら私のような軟弱者には、無宿渡世の旅はムリなようだ。

が、せっかく都城まで足を伸ばしたのだ。地図を見ると、桜島がすぐ近くにある。4年前(2013年)にかみさんとクルマで鹿児島に来たときは、宮崎駅前のホテルから「知覧特攻平和会館」に直行して(その途中で鹿児島県警の覆面パトカーにスピード違反でパクられて(恥) )、その後は熊本県八代市の宿泊先に直行したので、桜島の雄姿はまったく見ていなかったのだ。

(じゃあ行ってみるか)
ということで、またしてもロクに調べもせずに、もはや旧機種となってしまった愛用のPND「Panasonic GORILLA CN-G500D」の「50音検索」でヒットした「道の駅 桜島」を目的地に設定しただけで国道10号▼を走り出す。
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そして、ホテルを出て1時間ちょっと走った頃だろうか。(ルートログとGoogleストリートビューで確認する限りは)国道224号を走行しているときだと思うが、桜島の噴火口(昭和火口)が見えてきた。
(おおースゲえ)
と思いつつ、
(道の駅まで行けば、もっとよく見えるだろ)
という安易な判断に基づき、停車してカメラを取り出すことなく走り続ける。この判断が、後々大きな後悔をもたらすことになる。

灰色の世界

なぜなら、程なくして辿り着いた「道の駅 桜島」からは桜島がまったく見えなかったのだ。
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(▲駐車場には一面に灰が降り積もっていた)

道の駅のホームページでは「桜島を一望できる道の駅」と謳っているので、この日は周辺一帯が灰で遮られていたのだろう。
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地元の人には「当然ですばい」と笑われるだろうが、駐車場からトイレまで数十メートル歩いただけで、インナーキャップとジャケットに結構な量の灰が付いてマイった。
(こりゃこれ以上灰だらけになったらタマらん)
雨とか雪とか灰とか槍とか弾道ミサイルとか、とにかく空から降ってくるものは押し並べてキライなのだ。急いで道の駅を後にしつつも、なんとか桜島が見える場所を探して近くをうろつく。
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(▲鹿児島市に向かうフェリー乗り場の近く)

が、上からは灰が降り注ぎ、下からは路面に降り積もった灰をクルマが巻き上げる。とにかくそこは、ただ灰が宙を舞うだけの「灰色の世界」であった。

地図も読めない男

逃げるように灰色の世界を後にして、数キロ走った先にある海沿いの公園で、ヘルメットやジャケットやM109Rや、ただ後ろに積んでいるだけの文字どおり「お荷物」と化したキャンプバッグにこびり付いた灰を落とす。
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ここまで▲キレイにするのに、なんだかんだで30分もかかってしまった。想定外の時間のロス。

その後、なんとか御岳を一望できるポイントを見つけたが、噴火口は反対側にあって迫力はいまいち。
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(だからってわざわざ来た道を戻るのもなあ・・・)
と思ってあきらめたのだが、帰ってきてからルートログを見て愕然とした。桜島の周囲をぐるっと一周していたということに、現地ではまったく気づいていなかったのだ。つまり、一周した後に左折せず、右折して「2周目」に突入してちょっと走っていれば、噴火口側の写真を撮ることができたのである。

桜島の地形を把握していないばかりか、じっくり地図を確認することもしていなかった。まあいつものことではあるけれど、相変わらずのテイタラク・・・。

 

水俣病について考える

PNDで「水俣病歴史考証館」を知る

消化不良のまま桜島を後にして、次の目的地に向かう。熊本県水俣市。言わずと知れた、水俣病発症の地である。

4年前に熊本県に訪れたときは、八代市の「デイリーマンション」に一泊したもののこれといった観光はせず、長崎の平和公園に直行したのだった。帰宅した後、(そういえば水俣にも行けばよかったなあ)と思った。ルートログを見返すまで、戦後最悪の公害のことなどすっかり忘れていた。

今日日は自然環境もだいぶ改善されたということで、忘れっぽいこの国の人々の脳裡からは消えてしまっているようだが、水俣病を始めとする「公害」は、私がガキの頃(昭和40~50年代)は最大の社会問題だったのである。たぶん小学校低学年の頃だったと思うが、被害者の症状を捉えた映像を初めて見たときの衝撃は、水俣から遠く離れた片田舎のクソガキに「公害の恐ろしさ」を植え付けるのにじゅうぶんなものであった。

そんな水俣病の「今」を知るために、どこか博物館的な施設に行ってみよう。桜島を写真に収めることをあきらめた後、CN-G500Dの「50音検索」に「みなまたびょう」と打ち込む。先頭、つまり現在地点からもっとも近い施設として「水俣病歴史考証館」が表示される。
(おお、なんかヨサゲなんじゃねえの)
またしてもどんな施設かも確認しないまま、名前だけに釣られて現地に向かう。

目的地が近くなってきて、昭和の頃、田舎によくあった平屋+長屋の団地が目に入る。

(おいおい、こんなところに「博物館」なんかあるわけねえだろ)
と内心ツッコミを入れるが、CN-G500Dは自信満々でルート案内を続ける。
(ウソだろ・・・なんだよコレ)
目的地にたどり着くと、そこには古い民家があり、その脇には確かに「水俣病歴史考証館」という小さく粗末な看板が掲げられていた。
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すぐに引き返そうかとも思ったが、ご覧のとおり▲の砂利敷きである。M109Rがもっとも苦手とする路面のひとつだ(というか、得意なのはキレイに整備された舗装路だけなのだが)。簡単に引き返すことはできない。

(まあせっかく来たんだし、ちょっとどんなトコかだけ見ていくか)
そう思って駐車されているクルマを塞ぐ形でM109Rを停めて(※他に停めるスペースがなかったのだ)奥に歩こうとしたとき、一段下にある長屋から若い男性の声がした。

「水俣病歴史考証館」でマンツーマンの講義を受ける

若者「見学の方ですか?」
私「ええ、はい、そうです」
若者「ちょっと待ってもらえますか、すぐに行きますので」
私「ああはい、あ、あとバイクはここに置いてていいですか?クルマ出られませんけど」
若者「いいですいいです、(クルマは)出ないんで」 

程なくして、先程の若い男性ではなく、「大学教授」といった風貌の、長髪+髭ヅラ+やせ型のおっさんが現れた。それにしても若い男もおっさんも、なかなかのイイ男である。私の性向として、これがブサイクだったら気分も萎えるが、顔が良ければ話を聞こうと思うものなのだ。建物に向かう少しの間、「教授」と会話をする。

教授「どちらから来られたんですか」
私「横浜です」
教授「旅の途中で(ココに)寄られたんですか」
私「ええまあ、そんな感じです」
教授「横浜からはずっとバイクで?」
私「はい」
教授「フェリーも使わずに?」
私「いえ、フェリーは使いました(笑)」

まさかこんなところで、フェリーを使ってラクをしたことが負い目になろうとは思わなかった。「教授」とそんな話をしながら敷地のいちばん奥まで歩いて行くと・・・
(まじか・・・なんだよこの建物は・・・)

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なんと形容すればいいかわからないが、およそ博物館とは思えない、粗末な建物のビジュアルを目にしてまたテンションが落ちる。しかも建物には鍵がかかっていて、教授が開けないと中に入ることもできないのだ。なんだよこの「怪しい博物館」は。

とは言え、この期に及んで「やっぱり帰ります」と言い切るほどのガッツは私にはない。おとなしく「教授」が鍵を開けるのを待って、言われるがまま入館料500円を払って中に入る。そして中に入るなり、マンツーマンでの講義が始まった。

教授「この建物は昔キノコ工場だったんです」
なるほど確かにそんな感じの建物だし、だからこんな場所にあるのか。やがて工場が立ち行かなくなり、廃屋になりかけていた建物を有効活用するためにこの考証館を始めたそうだ。

教授「昔、この地域の漁師さん達はこんな道具を使って漁をしていました」
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前時代的な漁具は、過ぎ去りし時代の貴重な物証である。そして簡素で原始的な漁具からは、貧しく慎ましかったであろう漁民達の暮らしぶりが透けて見えるようでもある・・・ま、そんな感傷はさておき、私には「ブログを書く」という、誰に命じられたワケでもない自分自身で勝手に課した大事な使命がある。講義を遮って質問をする。
私「すみません、写真撮っていいですか」
教授は一瞬困ったような顔をして答えた。
教授「(漁具を指し示しながら)この辺は全部いいです。でもパネル、特に写真はすべて撮影禁止です。もしネットで見つけたら削除要請する場合もあります」

ピシャリと拒否されて一瞬たじろいだが、(アップじゃなきゃいいんでしょ)と開き直って、引きで写真を撮る。
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この中▲で特に印象に残ったのは、「魚が主食」と題された写真である(※下段の左から3枚目)。数人の女性と子供たちが、鍋に山盛りになった魚を囲んでいる。さすがにこの大きさだとどんなに拡大しても解説文までは読み取れないが、「教授」の解説によれば、水俣病の症状が現れてからもなお、この地域の貧しい人達は有機水銀をたっぷり含んだ魚を食べ続けていたそうだ。(極論すれば)それしか食べ物がなかったからだ。

富める者は何食わぬ顔で“毒”を垂れ流し続け、何も知らされない貧しき者はその毒を摂り続ける。悲しくて悲しくてとてもやりきれない水俣病の構図が、その1枚の写真に凝縮されている。

思わぬ来訪者にシラケまくる

漁民達の貧しい暮らしぶりの後は、犯罪者集団チッソの解説に入った。
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「教授」の解説を真剣に聞きつつ、ただ聞いているだけではツマラないので、足りない脳ミソをフルに使って質問をする。さすがは「教授」、いちいち的確な回答を丁寧に繰り出してくる。
(おお、なんか楽しくなってきたぞ)
そう思っていた矢先、入口の方で「すみませーん」と声がする。30代前半ぐらいの男が入ってきて、見学者だと言う。
(なんだよ、せっかくおもしろくなってきたところなのに。空気の読めねえヤローだ)
アサッテなツッコミを内心で入れている私のことなど眼中にない、途中から講義に割って入ってきたその男は、やれ水俣病患者は何人いるだの、裁判の被告は何人だのと、「それを知ってどうすんだよ」的なつまらない質問を次々と口にする。
(数なんてどうでもいいんだよバカ)
という私の心の叫びも虚しく、「馬鹿な子ほど可愛い」というコトワザどおり、「教授」は男に掛かりきりになってしまった。
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(なんかシラケちゃったな)
少しずつ少しずつ講義からフェードアウトして、ひとり勝手に館内を見て回った。

水俣病歴史考証館まとめ

私の印象では、「水俣病の歴史」ってよりは「水俣病の“闘争”の歴史」を考証することに重きを置いているように思えた。「怨」の文字が入ったおどろおどろしいノボリがその象徴である(不気味過ぎて、つい写真を撮り損ねた)。ただ、裁判資料等は「教授」を始めとしたここの職員の解説がないと、展示物としてはおもしろくない。そもそも、水俣病の何たるかを知らないであろう現代の子供や若者たちを惹きつけるには、その症状にスポットを当てるのが肝要だと思うのだが、被害者に気を遣っているのか、(医学的な解説はあったものの)症状を端的に示す映像も写真の展示もなかった。

一方で、「賠償金を手にすることができなかった人が、それを手にした人に宛てて出した誹謗中傷の手紙」なんかも展示してあって、そのナマナマしさには軽い衝撃を受けた。人間のもっとも醜い部分をも曝け出したこの企業犯罪を省みることは、現代の福島第1原発に関する諸問題(風評被害や、「福島から引っ越して来た」というだけでイジメに走る低能ども等)を考える上でも非常に有用だと思う。

そんなフクシマの現状を遠巻きに見ている現代の水俣市民は、全国的にはすっかり忘れ去られてしまった水俣病をどのように捉えているのだろうか。
もし現代に同様の企業犯罪が起きたら、はたして社会はどのように動くのだろうか。
昭和期の社会構造が未成熟だったとは言え、この企業犯罪を早期に食い止められなかった根本的な原因は何か。
そもそも、「水俣病」とは何だったのか。

「教授」にいろいろ聞きたいことはあったのだが、まあこればっかりはしかたない。桜島同様、ここでもまた消化不良のまま、水俣病歴史考証館を後にしたのだった。

(つづく)