選挙に行って投票制度を思う

本日は統一地方選挙の日。

「行きたくない」「興味がない」とゴネるかみさんに「センキョはコクミンのギムだ」と軽くウソをついて徒歩5分の投票所(オートバイ用ガレージ(借)より若干近い(笑))へ向かう。

 

おばあさんとセンキョインフラ

投票所がある中学校の校門を私たちがくぐるのと同じタイミングで、ひとりのおばあさんが反対側から入ってきた。杖をついて。おぼつかない足どりで。

「あんなバアさんでもああやってわざわざ来てんだよ」
そうかみさんに言い聞かせる。

校門から投票所がある体育館の入口まで、約50m程である。

私たちが投票を終えて体育館から出てきたとき、おばあさんはようやく体育館に入ってきた。

その様子を見て、かみさんが「(投票が)在宅でできればいいのにね」と言った。

私が選挙権を得てから、かれこれ30年近く経つ。情報インフラは、30年前には想像もできなかったほどに進化した。が、投票方法は何も(”まったく”と言っていいほど)変わっていない。

 

低投票率

午後2時(14時)時点での、私が行った投票所の壁に貼ってあった投票率が「19.11%」。投票は午前7時から始まって午後8時(20時)までなので、ちょうど”半日過ぎた”ぐらいの時間である。

メディアで頻繁に取り上げられる国政選挙でさえ投票率が50%を切ってしまう今日日、地方選挙はメディア(特にテレビ)ではほとんど取り上げないので、さらに低い。

「オンライン選挙」がじゅうぶん実現可能なレベルまでインフラが整ってきていると思うが、それが現実になる気配は微塵もない。「『投票率を上げたくない』勢力があって、あえて制度を改善しようとしない」という”分析”を目にすることもある。

もういい加減制度を変えて、世の中の「声」も少しでも拾いやすくするためのシステムを作り上げなければいけないのではないだろうか。 

 

耳あらば聞け

拙宅に1960年6月当時の「アサヒグラフ」がある。今は亡きおふくろさんが保存していたモノを、実家から持ってきたものだ(実家に置いといても無意味に”朽ち果てる”だけなので)。

「声なき声」などと詭弁を語った、当時の宰相を皮肉った記事がある。
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この記事が書かれた55年も前から、セイジカの姿勢は何も変わっていない。記事にある「言論表現の自由」は、確かに現在でもいちおう自由ではあるが、それによって制度が大きく変わることはない(”全く”とは言わないが)。

「政治の季節」はとうに過ぎて、コクミンが無関心を決め込んで久しい。「声ある声」は小さくなる一方だ。ならば、「声なき声」にも耳を傾ける姿勢も必要だと思うのだが・・・。