君は「会津博_1967」を見たか:その2:会津人にとって鶴ヶ城とは
城跡全体を博覧会場にするなんて!
前回も書いたが、
昭和42(1967)年に開催された会津博のおもしろいところは、
「鶴ヶ城天守閣を中心として城跡全体を博覧会の会場としていた」
ということである。「福島民友新聞百年史」には、残念ながら会場見取図のようなものは掲載されていないが、以下のとおり記されている。
鶴ヶ城は国指定の史跡であり、それを会場に使うのは、文化財保護の観点から許可されないところだが、会津の人々の熱い熱望、戊辰戦争から百年の節目でもあり、特に許可された。〔中略〕
五層の天守閣をあおぎ見る本丸を中心とし、広大な城跡すべてを会場にあて、仮設する建物だけでも二十七棟にも及ぶ大がかりなものとなったが、原形を損ねないよう細心の注意を払って設営が進められた。-福島民友新聞百年史:昭和・中期編:6 会津博覧会の大成功
どうだろう、なにかすごくおもしろそうなイベントだと思わないだろうか。
私がなぜ今さら鶴ヶ城にこだわるのか
そこで、会津博について語る前に「なぜ私が鶴ヶ城にこだわるのか」について書いておきたい。
2015年ゴールデンウィークの”裏日本”ツーリングで、島根県松江市にある「松江城」を見学した(ま、城の周りをぐるっとまわって写真撮っただけなんだけど)。
▼松江城(撮影日:2015/05/02)
その長い年月に耐えてきた巨大な建造物の、重厚かつ威風堂堂たる雰囲気に打ちのめされたと同時に、その建造物が
- 明治政府によって取り壊される寸前であったこと
- 当時の松江や出雲の人々が尽力して取り壊しを食い止めたこと
を、恥ずかしながら齢47にして初めて知って、非常に興味を持ったのだ。
翻って、「わがふるさと会津の鶴ヶ城はどうだったのか」を考えると、こんなに知識がプアな私でも
- 幕末期に戊辰戦争という内戦があり、鶴ヶ城が敵軍の攻撃を受けたこと
- その攻撃を受けながらも、鶴ヶ城天守閣は崩壊しなかったこと
- 現在の鶴ヶ城天守閣が鉄筋コンクリート造で1965年に再建されたこと
ぐらいは知っていたので、
- なぜ明治期に鶴ヶ城天守閣は取り壊されたのか
(なぜ松江城のように保存されなかったのか) - どのような経緯で昭和期に鶴ヶ城天守閣は再建されたのか
- なぜ昭和版・鶴ヶ城は鉄筋コンクリート造としたのか
を疑問に思うとともに、その答えを知りたいと思ったのである。
会津人にとって鶴ヶ城とは
私は会津若松市内ではなく、隣町である会津坂下町の出身であるが、それでもモノゴコロがつく前から毎年のように鶴ヶ城には訪れていた。
昨日の記事では、ややセンチメンタルに「今は亡き父と母は、はたして会津博に行ったのだろうか?」なんて思わせぶりに書いたが、よく考えてみればそんなイベントに行っていれば必ず写真が残っているはずなので、それが残っていないということは、つまり「行っていない」ということなのである。
というワケで”証拠”が残っている私にとって最古の鶴ヶ城”巡礼”は、上の写真の3歳になる直前であった。
まあウチのおふくろさんを始めとしてオトナ達の半数(※オレ推測)は故人だろうし、子供達は私と同様に既にアラフィフで、当然のことながら現在の容姿はまるで違っているはずなので*1、モザイクやボカシ無しで掲載する。その方が時代の”空気”が伝わるってもんだ。
なお、この保育園(=会津坂下町立坂下保育所)の「春の遠足」の写真は、この後6歳までの4年間、毎年きっちり同じ場所=「鶴ヶ城天守閣前」で撮影されている。
この例のように、会津人にとって「鶴ヶ城」と「野口英世記念館」は、”聖地”として毎年必ず訪れなければならない場所なのである(※多少誇張しています)。
・・・それにしても、子供達のうちの半数は、誰なのか名前まで覚えていた。けっこう忘れないもんだなあ・・・
(つづく)
*1:ちなみに、この中にハタチ以降に会ったことのあるヤツはひとりもいない