モノクロな思い出の中に祖父の姿を見る(2)

今週のお題「一番古い記憶」

今日書くことは既に「一番古い記憶」ではないのだが、昨日古い記憶をたどるうち、しばらく思い出すこともなかった祖父のことを少しだけ思い出したので、せっかくだから彼の葬式の思い出まで書いておこう。

まずは、祖父がまったく登場しない、自転車の思い出から。この頃、既に彼は入院していたのだ。

 

5歳の時に庭でひとりで自転車の練習をした

幼少の頃、自転車の「補助輪」というモノが、どうにもキライだった。

なんか”まどろっこしい”というか、オートバイなんてものに好んで乗っている*1今思えば、車体が ”傾かない” 感覚が、物心ついた頃から好きじゃなかったのかも知れない。

「補助輪なしの自転車」に乗ろうと思ったらまず、親や兄弟に手助けしてもらうことが多いと思うが、私はひとりで実家の庭で練習した。ガキの頃から、なんでもひとりでやるのが好きだったのだ。

また、実家は玄関から門扉まで30m程あって広かったし、当時はまだ地面が舗装されておらず ”固めの土” の状態だったので、自転車の練習には最適だった。

母は玄関先に立って、私が練習する様子を見ていた。手助けするでもなく、私が転んでも駆け寄るでもなく、ただ黙って見守ってくれていた・・・なんて書くと、「厳しくもあり、やさしくもあり」みたいな感じで聞こえはいいが、どうせなら、写真の1枚でも撮っておいてくれれば良かったのに、と思う。

現代の一般家庭なら、「ひとりで自転車の練習をする様子」なんて、動画でその様子を記録するのに格好の題材なはずだが、動画はもちろんのこと、写真1枚さえ残っていない。

母はそういうことにまったく無頓着だった・・・というか、昭和40年代当時は「子供の成長を映像や写真に残したい」という想いよりも、それにかかるコストへの懸念の方が上回っていたのだろう。

昭和40年代前半に生まれた私達は、その思い出のほとんどを映像や写真に頼ることができずに、自分の頭の中に ”録って” おくしかないのである(※コストの心配が無用な一部のお金持ちを除く)。
 

5歳の時に亡くなった祖父の葬式

この思い出はカラーだ。

きれいに死に化粧を施された祖父の鼻の穴に、真っ白な脱脂綿が詰められていたことを今でもはっきりと覚えている。「なぜ鼻の穴に脱脂綿が詰まっているのか」不思議で仕方なかったからだ。

そしてその顔は、まさしく ”仏のように” 穏やかだった。

とは言え、5歳のガキである。「人の死」など、実感できるはずもない。

親戚たちが大勢集まって実家が賑やかになったのがうれしくて、鎌倉から来た従兄弟とずっといっしょになって騒いでいた。

叔父(父の弟)が、祖父の棺桶の傍らに私を呼んで言った。

じいちゃん、死んじまったんだぞ

「神童(笑)*2」である私は、その言葉だけで「死」を捉えたのか、単に叔父の話し方が悲しみを誘ったのか、はたまた「場」の雰囲気に流されたのか、理由は自分でも覚えていないが、それを聞いたとき、ふいに私は号泣してしまった。突然祖父の死を悼んで泣き出した(ように見える)5歳の子供に、周囲の大人たちは驚いたことだろう。

同い年の従兄弟は、その隣でずっとポカーンとしていた。

それから三十数年後、その従兄弟は地元の信用金庫に就職して、それなりの地位に就いていると風の噂で聞いた。私は50歳近いというのに、未だにペーペーである。

人生を上手に生きるのに、「感受性」はまったく役に立たないようだ。

(この項おわり)

 

*1:ま、たまにしか乗ってないけど

*2:前回の話をご参照ください