「許す」ということ
アンネ・フランクの義姉の苦しみ
「朝日新聞デジタル」の「辛口キャスター、交代の春 本人の意思・数字…事情様々」という記事を読んでいたら、下の方にある見出しに目が留まった。
昨年(2015年) 6月に既に公開されていた、アンネ・フランクの義姉だという女性の、苦悩に満ちた半生を紹介した記事であった。
www.asahi.com
エバさんの憎悪は、ナチスの残虐行為を止められなかった「世界」にも向けられた。アンネに執着する継父オットーさんへの複雑な思いもあった。心の中に渦巻くどす黒い感情。
「この世にいないアンネばかり注目され、生き残った私は苦しみを抱えて生きている。それが許せなかった」
救いの手を差し伸べたのは、他ならぬオットーさん。
「人を憎めば自分を惨めにするだけだ」とエバさんに諭し続けた。いてついた心はぬくもりを取り戻していった。
アンネ・フランクと同い年の友人で、戦後に実母の再婚によってアンネの義姉となったエバ・シュロスさんは、戦後も強制収容所での過酷な体験の記憶に苦しみ、ホロコーストの首謀者であるナチス・ドイツと、それを許した全世界を憎み続けた。
その一方で、継父が心の拠り所として世に出した「アンネの日記」は広く世間の人々に受け入れられ、「アンネ・フランク」という少女の名は、世界中の誰もが知るところとなった。
ただ、彼女はその日記をどうしても受け入れることができなかった。
その日記はアンネが強制収容所に送られる前に書かれ、性善説を基にしていたから。
自分はこうして苦しみ続けているのに、既にこの世にいないアンネばかりが持てはやされるから。
そんなエバさんの凝り固まった感情を、継父の「人を憎めば自分を惨めにするだけ」という教えが解かしていき、やがて長い年月と周囲の人々の声が、「収容所での体験を後世に伝えなければ」という思いを芽生えさせていった・・・。
アンネ・フランクはもちろんガキの頃から知っていたし、「アンネの日記」も“チラ見”ぐらいはしたことがあるが、 こんな女性がいることも、アウシュヴィッツでの体験を手記に残していることもまったく知らなかった。ついでに言うと、この朝日新聞デジタルの記事も半年以上気づかなかった。恥ずかしい限りだ。
このエバ・シュロスという女性は、「ナチス・ドイツへの憎しみ」だけでなく、「アンネ・フランクへの嫉妬」という感情も抱いていたという点において、非常に興味深い。
今でもそれらの感情は消えていないと想像するが、ただ拒絶するだけではなく「受け入れる」ことを選んだとき、「強制収容所での過酷な体験を語り継ぐ」という“意義のある未来”が開けたのである。
キリノ元フィリピン大統領の“赦し”
「今上天皇である明仁さんと、その嫁の美智子さんがフィリピンに戦没者慰霊の旅に出た」という報道に関連して、エルピディオ・キリノという元フィリピン大統領のエピソードも各メディアで紹介されたので、目にした人も多いだろう。
キリノ元フィリピン大統領は、マニラ市街戦で妻と3人の子供を日本兵に惨殺されたにもかかわらず、戦後BC級戦犯として刑務所に服役していた100人以上の日本兵に対して恩赦令を出した
というエピソードである。
キリノ大統領の恩赦令について、永井准教授 *1 は「冷戦の現実を前に、キリノは対日協調の道を探り、戦犯に寛大な措置を講じた。
逡巡の末の政治決断であり、将来の比日関係を見すえ、対日憎悪の連鎖を断つことの大切さをフィリピン国民に示し、日本国民にはフィリピン人の痛みへの理解を促した」と指摘している。
これまた全くもって恥ずかしい限りだが、私はこのニュースを聞くまで、単純にフィリピンは日本の「友好国」だと思っていた。「マニラ市街戦」という地上戦があったことも、そこで多くの市民が日本兵によって殺害されたことも、まったく知らなかった。自称「昭和史好き」が聞いて呆れるわ。
まあ私の無知はともかく、キリノ元大統領が恩赦令を出した背景には、上記引用のとおり「米ソ冷戦下におけるフィリピンと周辺各国との地理的事情」や、「日本との賠償交渉の行き詰まり」などを見据えた政治的判断があったと思われる。
とは言え、もしキリノ元大統領の英断がなければ、どこぞの隣国のように、戦後70年が過ぎた現在でも、日本とフィリピンは険悪な関係が続いていただろう。
「日本全国津々浦々にフィリピンパブがある」、そんなウォータービジネス・カルチャーも生まれなかったはずだ。
ひとりの大統領の寛大な“赦し”が、歴史や文化だけでなく、後世の人々の意識まで大きく変えたのである。
「過ぎたことはもういいじゃないか」
ある人のブログ
以前、ある人のブログにコメントを書いたことがあった *2。
そのブログの作者は、昔ヒドい目に遭わされた人物(以下、わかりやすいように「当事者某」と記す)を恨んでいるが、その人の父親は最後まで当事者某を責めようとはしなかった、そんな内容だった。
私は、その人の父親は当事者某を許したのだろうと思った。決して「お人好し」の類 (たぐい) ではないと思った。その推測を確かめたいと考えて、少々まわりくどい表現でコメントを書いて話を掘り下げようとしたのだが、その思いは伝わらず、逆に少し怒らせてしまったようだった。
その人の怒りや憎しみはその人にしかわからないものだし、話をこじらせるのは本意ではないし、コメント欄だけで自分の思いを伝えきれる自信もなかったので、それ以上の言葉を返すのはやめた。
松田優作の口癖
これは、私が生涯最も愛する役者である、松田優作の口癖である(と、伝え聞いている)*3。
ファンなら誰でも知っていると思うが、松田優作は下関の遊郭街に私生児として生まれ、複雑な家庭環境の下で孤独な少年時代を送っている。
「どうにもならない過去や境遇を嘆く前に、やるべきことがあるだろう」、この口癖は、彼が自分自身にそう言い聞かせていたように私には思える。
「無縁坂」の母
母はすべてを暦に刻んで 流して来たんだろう
悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに
さだまさしは、稀代の名曲「無縁坂」の歌詞の中で、戦中戦後を生き抜いてきた母の労苦を想いながら、その“強さ”をこう表現した。
私自身のことに置き換えると、そんなふうに“水に流す”ことがいかに難しいかはよくわかる。人間、ひとたび理不尽な思いをさせられると、その恨みや憎しみはなかなか消えないものだ。
それでも、どんなに辛くても、私は社会の中で生きていかなければならない。
“よりよく”生きていくためには、「負」の感情は持たないに越したことはない。
悲しみも苦しみも憎しみも、その時々の単なるひとつの出来事として、受け流していくしかないのである。
それができたときに初めて、未来への扉がひとつ開くのだろう。
*1:永井均・広島市立大学准教授。「フィリピンBC級戦犯裁判」の著者。
*2:理由についてはここでは触れないが、私は他人のブログにコメントはめったに書かない
*3:出典はABC「驚きももの木20世紀」1994年1月28日放送分「松田優作伝説」