母との最後の食事は、近所の回転寿司だった
日経夕刊の山口恵以子さんのコラムを読んで、母との最後の食事を思い出した。それはまた、後悔で埋め尽くされた私の人生の中でも、とりわけ大きな後悔を伴う出来事なのである。
日経夕刊「プロムナード」
昨年8月にも一度書いたが、日経夕刊の「プロムナード」というコラムを今でも楽しみにしている。
今年 (2016年) は、
- 月:羽田圭介(作家)
- 火:山口恵以子(作家)
- 水:前田司郎(劇作家)
- 木:原田ひ香(作家)
- 金:難波功(社会学者)
- 土:しまおまほ(イラストレーター) ※敬称略
という布陣である。
羽田圭介氏は、その作品こそまったく読んだことはないが、テレビ番組における数々の迷言から *1、(どんなコラムを書くんだろう?)と随分楽しみにしていたが、残念ながら、今のところまったくおもしろくない(笑)。笑える話もなければ、“タメになる”話もほとんどない。連載開始当初は(気負いすぎてるのかな?)なんて思っていたが、開始から5ヶ月以上が過ぎた今でもあまり変わらず、安定しておもしろくないので(笑)、コラムというかエッセイというか、そういうジャンルがきっと得意ではないのだろう。
その一方で、今まで「おもしろくなかった話が一度も無い」のが、山口恵以子さんである。
山口恵以子さんのコラム
数年前に松本清張賞を受賞されて、テレビでその姿を見るようになった頃は「ただのエキセントリックなおばさん」というイメージだった山口恵以子さんだが、最近は「ワイドナショー」等での的確なコメントを聞くにつけ、「硬軟併せ持ったイマドキの女流作家」というイメージを、少なくとも私は持っている。
先週の「プロムナード」での話は、『醤油と塩』と題して、
- 前半:醤油にまつわる種々の豆知識
- 後半:母と天ぷら屋に行った時のエピソード
というものであった。
前半は私の知らない知識ばかりが書かれていてタメになったし、後半のエピソードは掲載当日 (6月7日) の帰りの電車で読んでホロリとして、翌日、会社でまた読み直してウルウルしてしまった。
話の概要はこうだ。
89歳の母と、ミシュラン1つ星の天ぷら屋に行った。
そこは「天つゆ」ではなく「塩」で食べさせる店なのだが、「天ぷらを塩で食べる」という概念のない母は、どうしても天つゆで食べようとする。そんな母に恐縮するあまり、私はずっと下を向いていた。
- 2016年6月7日付 日経夕刊「プロムナード」『醤油と塩』山口恵以子 ※筆者要約
ところが、お母様は悪びれることもなく・・・
帰宅後、母は嬉(うれ)しそうに言った。
「ああ、美味しかった。珍しい天ぷらが、いっぱいで。ありがとうね」最初から天つゆを頼んであげれば良かったと、少し後悔した。
- 2016年6月7日付 日経夕刊「プロムナード」『醤油と塩』山口恵以子
母との最後の食事
山口恵以子さんの話にホロリとしたのには理由がある。生前、母との最後の食事のことを思い出したからだ。
母は2008年の12月、都内を旅行していた時に倒れて、飯田橋の病院に入院していた(このブログでも何度か書いた)。病名は「大腸がん」で、クリスマスの頃に手術をした。
医者は「正月ぐらいは自宅で過ごした方が良い」と勧めたが、手術を終えたばかりで「実家 (会津) に帰るのは体力的にキツいだろう」ということで、年末年始は当時川崎市幸区にあった拙宅に泊まった。
そして、正月三が日が明けて病院に戻る前、近所の回転寿司屋に行った。「ぐるめ寿司」という、川崎ローカルの回転寿司屋である。
イメージを少しでも良くしようとしているのか、「横浜・川崎の」と謳っている▲が、横浜と言っても、“実質的には川崎市”である鶴見区に1店舗あるだけなので、「川崎ローカル」と言い切って差し支えないだろう。
そんな「ぐるめ寿司」は、たいして美味しくもないごくフツーの回転寿司屋なのだが、なんせまともな食事処は近所にそこだけだったので、母の「何か食べてから行こう」という提案を受け入れたとき、他の選択肢はなかったのである *2。
大腸がんの手術を受けてから間もない母は、当然のごとくほとんど食べられなかった。タマゴをひとつかふたつ、食べただけだったろうか。
今思えば母は、愚息とその嫁と3人で、最後になるかもしれない食事をしたかったのだろう。だから、 「あれを食え」「これも食べろ」と、「もういらない」と言う私に構わずあれやこれやと勧めてきたのだ。
私は当時まだ太っていて、食べ過ぎると腹周りが苦しくなってクルマの運転に差し支えるのがイヤで、あまり食べたくなかった。だからついイラついて、「だからもういらねえよ!」と強めに言ってしまった。
母は少し悲しそうな顔をして、それきり黙ってしまった。母との最後の食事は、気まずい雰囲気のまま終わった。
その時の私の悪態は、いまだにかみさんに責められる。もちろん私は、グウの音も出ない。
最後の食事から1年が過ぎようとする頃、母は・・・
その年 (2009年) のゴールデンウィークは、実家に行ったはずである。ちょうどその年の5月2日、ガキの頃から尊敬して止まない忌野清志郎さんが亡くなって、その話を実家で兄貴とした記憶があるからだ。ただ、まだ入院せずに実家にいたはずの、母の記憶がまったくない。
その時の写真を確認したら、実家で飼っているネコの写真があるだけであった(しかも全部ヘタクソ)。
お盆は仕事にカマけて、実家には行かなかった。
そして11月に兄貴の嫁から連絡をもらって会津の病院に向かったとき、母はもう目を開けることもできなかった。ただ、帰り際に「もう帰るからな!」「がんばっせよ!(※会津弁)」と耳元で叫んだとき、目を閉じたまま少しだけ微笑んでくれたのが、せめてもの救いだった。
クリスマスが間近に迫り、危篤の一報を聞いて病院に駆けつけたとき、母はただ、苦しそうに呼吸をするだけであった。
私が生まれてから母が亡くなるまでの42年間、母とは何度食事を共にしたことだろう。その最後は、川崎の場末の回転寿司屋で、私はやさしくしてあげることさえできなかった。
どうしてもっといい店に連れて行ってあげなかったのだろう。百歩譲って「ぐるめ寿司」でも、どうしてもっとやさしくしてあげなかったのだろう。
山口恵以子さんのように、「ありがとう」と母に言われる程度のことさえできなかった、その時の自分の愚行を振り返るとき、私は深い後悔の念に苛まれるのだ。