ストレスチェックで引っ掛かって、産業医のところへ行く
厚生労働省肝煎りの「ストレスチェック制度」に基づいて当該チェックをしたところ、案の定「高ストレス者」と判定されたため、産業医のところへ面接に出向いた。
思い出の地、麹町へ
ビルディング啓
仕事をテキトーに切り上げて、麹町駅に向かう。
会社から産業医が営む某医院へは、市ヶ谷駅から行った方が早いのだが、あえて麹町駅に来たのには理由がある。
詳細は後述するが、麹町駅3番出口がある「ビルディング啓」には、27年前、私が「正規社員」として初めて働いた店があったのだ。
1、2階のテナントはすっかり変わってしまったが、ビルの外観は当時のまんまである。
SADA PLANNING GROUP
思い出に浸るのもそこそこに麹町界隈を歩いていると、私がガキの頃から敬愛する、さだまさしさんの事務所があった。
「SADA PLANNING」という文字に気づいて、(おっ!?)と思い、(“SADA”って、あの“さだ”かな)と一瞬疑問に思ったが、知る人ぞ知る懐かしの「Free Flight」の黄色いロゴを見て(やっぱりあの“さだ”か)と確信した。
さすがは超一流ミュージシャン、事務所の場所も超一等地だ。はたして、27年前の昔も、この場所にあったのだろうか。
千代田区の超一等地にある某医院へ
女医とメルセデスと私
サラリーマンよろしく、約束の時刻のキッチリ10分前、某医院に到着。
敷地内にコレ見ヨガシに、歩行者の行く手を遮るように駐められているメルセデスのSクラスが、まるで一般庶民の来院を拒んでいるかのようだ。
この医院を経営している某医師は、以前テレビのワイドショーに、コメンテーターとして出演していたこともある女性である。50代半ばということで、もはや“キレイ”という感じでもないが、そこはさすがに一流の人間らしく、50代とは思えないスタイルをキープしていた。
あんまりディテールを書くと問題がありそうなのでこのぐらいにしておくが、私は「太っている医者」というのはハナから信用できないので、「話を聞こう」というモチベーションにはなった。
想定外のケース?
ただ、まあ元々期待はしていなかったのだが、面接に来た意味はほとんどなかった。そりゃカウンセラーじゃないんだから、彼女にしたって責められる筋合いじゃないだろうが、「親身になって話を聞く」という姿勢があまり感じられなかった。
彼女の言い分を聞いた限りでは、どうやら「長時間労働者の場合は、残業時間を減らすように会社に指示する」のを主眼としていて、それ以外のケースは「想定外」というか、平たく言うと「何も考えていない」ようだった。
「会社や上司への不満」が強い傾向にある人たち
そんな面接を思い出しながら、これを書くに当たっていろいろ調べていたら、非常に興味深い記事を見つけた。 doctor-trust.co.jp
この記事に「想定される事業者のデメリット」として、次のようなことが書かれている。
会社に不満を抱え、労働意欲が極端に低くなってしまっている人や、不当に人事考課が低いと自分で思っている人など、「会社や上司への不満」が強い傾向にある人たちとの面談機会が増えることが予想される。
まさしく、私のことである。この高橋正彦って人は鋭い。
ただ、「過剰労働」だけがストレスの原因でもあるまい。上にも書いたが「産業医 ≠ カウンセラー」であるとは言え、さまざまなストレッサーに対応できてこそ、「面接官」としての「資格」があるのではないだろうか。
会社、風通し悪くなったってよ
ひとつだけ、行った甲斐があったのが、「(私が勤めいている会社の) “風通し”が以前より悪くなったように感じる」と、彼女が教えてくれたことだ。面接自体は会社でも受けられたのだが、もし会社で受けていたら、そんな話はしてくれなかっただろう。
(月に一度だけ、数時間しか会社にいない人に何がわかるのだろう?)とは思うが、逆に考えれば、そんなわずかな時間しかいない人にも感じる「望ましくない変化」が、会社に起きているということだ。
「『会社や上司への不満』が強い傾向にある人」である私は、声を大にして会社全体に伝えたいところだが、残念ながらそれを伝える手段を、私は持っていない。
気を取り直して、思い出巡りの散歩
「四五六・麹町店」の思い出
30分足らずで“消化不良”のまま面接を終え、再び麹町駅に戻った。
2016年現在は「白木屋」になっているビルディング啓の2階は、1989年当時「四五六」という居酒屋で、私はそこで調理を担当していた。
このガードレールの脇に、当時の愛車「ホンダ・VFR400Z」を毎日駐めていた。今同じことをしたら、やはり駐禁切符を切られるのだろうか。
夜の営業に加えて「ランチ」もやっていたので、ただでさえ忙しかったのに、ある日、アホ社長のツルの一声によって、現在は金券ショップになっているこのビルの片隅で「弁当」まで売り始めた。
今でこそこの周辺には多種多様の店があるが、当時は食事が摂れる店はほとんどなく、コンビニさえなかった *1。だから、シロートに毛が生えた程度の調理師、つまり私が作った弁当もそこそこ売れたし、ランチに至っては大繁盛であった。
次から次に仕事を与えられ、月の労働時間は300時間をゆうに超えた。もちろん、残業代など1円も出なかった。
ストレス耐性はあるのだ
面接はクソの役にも立たなかったが、すっかり忘れていた出来事や、「四五六・麹町店」でいっしょに働いていた人達のことを思い出して、それがわずかばかりの「ストレス解消」に役立った。
今思えば、クソみたいな給料でドロのように働かされていたが、ストレスはそれ程でもなかった。要は、「労働時間」じゃないのだ。その仕事に自分なりの「意義」を見出せるかどうかなのだ。
私は決して「ストレス耐性の低い」人間ではない。
「四五六・麹町店」での出来事を産業医である彼女に伝えれば、今回の面接にも多少の“意義”がもたらされたのかもしれない。あるいは、「昔の話なんて」と“一蹴”されただろうか。