犬は、本当はどこに行きたいのだろう
唯一のリアル読者であるかみさんに「最近バイクネタばっかで全然おもしろくない」と非難されたので、たまにはバイク以外のことを書きます。
年老いた犬
最近、拙宅の近くを歩いていると、ヨボヨボの老犬が散歩している姿に出くわす。
ときには、旦那さんと思しき男性がひとりで、ときには、その嫁さんと思しき女性がひとりで、ときには、夫婦揃って散歩している。
老犬は、もうまともに歩くことができない。
顔を前に向けることさえできず、うなだれるように斜め下の地面を見つめながら、足をずらすようにして少しずつ前に進んでいく。そのうち、自分で上体を支えることさえできなくなって、その夫婦に抱えられながら散歩することになるだろう。
「“獣”医学の進歩」とでもいうのだろうか。そんな老犬を見ることは珍しくなくなった。昔は、足腰が弱る前に内蔵かどこかが悪くなって死んだはずだし、(都会はどうか知らないが) そもそも田舎では、犬猫を医者に診せるなんてことはなかった。
長生きするのは結構なことだ。でも、はたして犬自身は、そんな姿になってまで生き長らえたいのだろうか。
何度も脱走した犬
10代の頃に実家で飼っていた犬は、15歳のとき、クリスマスパーティー(笑)の帰り道に拾ってきた、という話は1年以上前に書いた▼。
拾ってきた当時、生後2、3ヶ月ぐらいだっただろうか。黄色い首輪をしていたので、どこかの家で飼われていたのは間違いなかったが、そこから脱走して、そのまま迷い犬になってしまったのだろう。
そして、実家で飼い始めて、ヒト月が過ぎようとしていたある日の朝。
散歩のためにリードを付け替える一瞬のスキをついて、彼は脱兎のごとく逃げ出した。追いかけて探したが、見つからなかった。次の日も、その次の日も、何日もずっと探し続けたが、見つけられなかった。
「もともといたウチに戻ったんだべ」
そう母が (会津弁で) 言った。それならそうとあきらめはついた。
春休みになって、昼間ぷらぷらと街中を歩いていると、前方から薄汚れた犬がフラフラと歩いてきた。何日も食べ物にありついていないのだろう、足元も覚束ない。ひとまわり身体が大きくなっていたが、その顔は紛れもなく、脱走した彼だった。私の顔はすっかり忘れていた様子だったが、もちろん連れて帰った。
彼は二度、私に拾われたわけだ。
もう30年以上前の話だが、今でも時々思うことがある。彼は、本当はどこに行きたかったのだろう、と。
サイバラさんのマンガの中の犬
私はマンガを読む習慣はないが、昔たまたま「週刊ヤングサンデー」という雑誌で連載されていた、西原理恵子さんの「ちくろ幼稚園」 というマンガを読んで、いたく感動したことがある。それはこんな話だった。
主人公の女性が幼い頃、家の前で死にかけの犬を拾った。母親に頼んで、河原にある納屋に運んでもらった。
連れて行った日には水を近づけると鼻をならしたが、次の日にはそれもしなくなった。
「ああ、この犬もうすぐ死ぬんやな」そう思うと女の子はすごく恐くなって、それから納屋には行かなくなってしまった。
夏になって台風が来て、川が氾濫し、納屋は流されてしまった。女の子は、なんとなくほっとした。「海まで行けたら、あの犬きっとまた自分の行き場さがせるやろ」
・・・主人公の女性は、やがて母親になった。
ある日、子供たちが子犬を拾ってきた。その犬を飼おうという子供たちに対して、彼女は言った。
「自分でエサが探せるようになるまでやったらな」
「犬は犬で、行きたいとこがあるもんや」
このマンガ雑誌が発売された頃、私は純ブラック超零細企業に勤めていて、その会社のトイレの横には、社長が捨てたマンガ雑誌がいつも積まれていた。トイレにコモるときになんとなく手にした雑誌だったが、思わず号泣してしまい、しばらくトイレから出られなくなってしまった。
もちろん、雑誌からそのページを切り取って持ち帰ったのは言うまでもない。
今回これを書くに当たって確かめたら、なんと1994年の掲載だった。今年4月のを含めると、その後4回引っ越しているのだが、今でもちゃんと保存してある。物持ちいいなオレ。
本当は、文字によるヘタクソな解説じゃなくて、マンガそのものを掲載したいのだが、私は著作権法を遵守するタイプなのでヤメておく。
ちくろ幼稚園―ぜんぶ (ヤングサンデーコミックス ワイド版)
- 作者: 西原理恵子
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1999/10
- メディア: コミック
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今ではすっかり、高須センセとペアでテレビに登場する「なんだか意味不明なおばさん」になってしまったサイバラさんだが、昔はステキなマンガを書いていたのだ。
犬は、本当はどこに行きたいのだろう
現在は、狭隘とは言え一軒家なので、飼おうと思えば犬を飼うことはできる。かみさんも、ときどき「犬を飼いたい」と言ってくる。
でも私は飼わない。
犬自身は、本当はどこに行きたいのか、本当はどうやって生きたいのかがわからないからだ。
腐っても人間社会なのだから、犬も人間と共存しなければいけないわけだが、よもや、ワックスの塗りたくられたフローリングの上を滑り転びながら走り回ったり、灼熱のアスファルトの上で肉球を焼かれながら散歩をしたいわけではないだろう。
そんなことを考えていたら、最近観た「星守る犬」という映画のことをふと思い出した。
この映画に出てくる「ハッピー」という犬は、飼い主とずっと行動を共にし、飼い主が死んでからもずっと傍に寄り添い続け、自分自身の最期も飼い主の傍で遂げるのだが、はたして彼は、その名前のとおり、それで“ハッピー”だったのだろうか。
実家で飼っていた愛犬は、当時玄関に鎖で繋いでいたのだが *1、毎朝目覚めると、2階から私が降りてくるのを直立不動でじっと待っていた。散歩が何よりも大好きなヤツだったので、それに連れて行ってもらえることを知っていたのだ。
2階からそっと覗いたとき、微動だにせずに階段のただ一点を見つめている彼の姿を、今でもはっきりと覚えている。
私と彼がいっしょに暮らしたのは実質的に高校の3年間だけだったが、彼は16歳まで生きたので、約13年近く毎朝ずっと、2階から私が降りてくるのを待っていたのだろうか。そんなことを思うと、なんだかとても切なくなる。
犬は、本当はどこに行きたいのだろう。本当はどうやって生きたいのだろう。
*1:現代では犬を繋いだりする家は少ないのだろうが、1980年代当時はそれが当たり前だったのだ