岡潔「春風夏雨」を読んで思う(2)
昨日は一日中ずっとNETFLIXでドラマを観ていたので、今日は読書をしなければいけないと思った。そんなふうに意気込みつつタイトルに「(2)」なんてサラッと書いてはみたが、前回、岡潔先生のこの本について書いてから、いつの間にか早5ヶ月以上が過ぎていた。
前回記事にした頃は、この本を電車の中で少しずつ読んでいたのだが、途中であまりにもつまらない箇所があって(「絵画」の章*1)遅遅として先に進まないので、そこは飛ばして(笑)読んでいたのだが、それでも90%ぐらいで”読み止まって”いた。
結局、長年読書を避けてきた私のような者に、本書のように”難解”な本の書評などは到底書けないので、印象に残った一節を引用して、それについてコメントする。
「無明」とは何か
岡先生は「無明」という言葉(概念)がお好きだったらしく、この本でもやたらと出てくる。ただその言葉が具体的に何を示すのか、私にはなかなか理解できなかった。
たとえば、「ピカソの絵を見に行ったら、そこに『無明』が描かれていた」という話で、
無明というのは仏教の言葉で、私の信奉している山崎弁栄上人の解釈によると、生きようとする盲目的意志のことである。
- 岡潔 「春風夏雨」
まあこのくらいなら私にも理解できるのだが、次の文章を読むと
盲目的であるにせよ、ともかく生きようとする意志のことなのだから、それほど恐ろしいものではないだろうし、また、少なくとも六道*2のうちの最高の序列にある人・天の二道における無明は程度が知れていると考えていた。
しかし、このピカソの絵を見て、生きんとする盲目的意志がどんなに恐ろしいものかがよくわかった。
- 岡潔 「春風夏雨」
と、いきなりの展開で面食らう。「人」はともかく「天の無明」とは何なのか、なぜ盲目的意志がそんなに恐ろしいのか。
さらに読み進めると、
無明を働かせるのが生きるということだと思っている人すら多い。〔中略〕
そうではない。無明をしりぞけながら進むのが「生きる」ということなのだ。生命力は無明から来ているのではなく、むしろ無明によって邪魔されているのである。
- 岡潔 「春風夏雨」
とあって、なるほど、
無明=生きようとする盲目的意志=”よりよく生きる”には邪魔なもの
ということなのかしら、とまでは理解できる。
さらに本の後半「再び自己について」の章で、以下のように記されている。
自分という観念はつぎの三つの要素から成り立っている。
一、不変のもの
二、主宰者
三、自己本位のセンス〔中略〕自己本位のセンスは本能のために起こる。この本能が仏教でいう無明である。
一、二が真の自分なのであるが、たいていの人においては、この本能がこれを圧倒してしまっている。自己本位ということが主宰し、自己本位ということが不変である。かような自分を仏教では小我というのである。
無明は限りなく恐ろしい。小我を自分だと教えるから非行少年問題が起るのである。
本当の働きは主宰者にしかできない。小我はそれを妨げる。〔中略〕
不変のものが眠ってしまうと、日本人でありながら、日本的情緒がわからなくなるのである。
何よりも、無明を抑止しなければならない。
- 岡潔 「春風夏雨」
ここまで読んでようやく、
無明=生きようとする盲目的意志=”よりよく生きる”には邪魔なもの
=自分本位の欲望を引き起こす意識
と理解した。ふぅ。
仏教を始めとしたあらゆる宗教の知識がないと、この本を読みこなすのは難しい。
この国の風景を愛す
最近は、この国の「周りが見えていない人間(=岡先生的に言うと「無明を抑止できない人々」)のあまりの多さ」に辟易している私ではあるが、次の文章を読んで「この国の風景は愛しているのだ」ということに改めて気づかされた。
私はこの国土の景色が好きである。柔らかくて、こまやかで、変化に富んでいて、木の葉にもにおいがある。〔中略〕
はえている植物はみな好きだし、咲く花もみな好きだし、木の葉の彩りの変化も好きである。
それにこのくにには四季のこまやかな変化がある。四季みなよい。照る日も、曇る日も雨の日もみなよい。風の日もよい。雨や風には四季によるさまざまの変化がある。
- 岡潔 「春風夏雨」
私はオートバイ乗りの端くれであるので、いざ自分がオートバイに跨がって走っているときに「雨の日も風の日も良い」 とは、とても思えない。
ただ、上の引用の文章に触れてから、今年のゴールデンウィークに走った「雨の長州路」などをふり返ると、「ああ、あれはあれで風情があって良かったなあ」と、懐かしく思えてきたのだ。
心のこもった文章には、記憶を”より良いもの”に変えてくれる力がある。
まあでも、次に出かけたときにまた雨風にさらされたら、「やっぱり雨風はイヤだ!」と思うのだろうけど(笑)。