墓参りツーリング2017~春なのに(中篇)
今年、2017年の「墓参りツーリング」の中篇。墓参りの様子と、会津坂下町の思い出スポットについて綴る。
イニシエのメインストリート
高校の頃、チャリンコでの通学路のひとつだった「福島県道22号会津坂下会津高田線」を通って、会津坂下町にたどり着く。時刻は午後1時半。国道118号が想像以上に遠回りで、すっかり遅くなってしまった。
故郷・会津坂下町に着いて墓参りをすれば、それで終わり・・・ではない。会津から新潟に抜けて日本海の夕陽を見るまでが、私の「墓参りツーリング」なのだ。
この時期、新潟県の日の入りは18時過ぎ。遅くても17時半頃までには、日本海までたどり着きたい。当初はブログネタのためだけに、(「道の駅あいづ 湯川・会津坂下」で昼飯でも食おうかな)なんて考えていたが、そんな余裕もなくなってしまった。
ちなみに、去年冷しラーメンを食べた「食堂いしやま」には、この日(4月14日)ノレンが掛かっていなかった。
(なんだよ、また休みかよ *1)
と内心ツッコミを入れたが、まあ無理もない。通りに人がぜんぜんいないのだ。会津坂下町のイニシエのメインストリートである福島県道22号(通称「ライヴァン通り(笑)商店街」)はクルマこそ時折通るが、歩いている人がまったくいない。“ほとんど”ではない、“まったく”いないのだ。
平日にこの町に来たのは、母が亡くなった2009年以来だが、その時よりも寂れていることを肌で感じる。1980年代以降、いわゆる「ロードサイド店舗」が国道49号沿いに増え始め、メインストリートがそちらに移行してから久しい。
この国のドコの田舎町も似たような状況だとは思うが、ガキの頃“行きつけ”だった馴染みの店がことごとくツブれてしまい、閑散とした街並みを眺めるのは、やはり寂しいものである。
金曜日には花を買って
例年と同じように「COOP BESTAばんげ店」・通称「生協」で墓に供える花を買う。
ライヴァン通り(笑)には人がいなかったが、生協には幾人かの買い物客が見られた。もちろん、ひとりの例外もなく、すべてお年寄りである。老婆がひとり、へたり込むように店先に置かれたベンチに座って無心に菓子パンを頬ばる姿が、微笑ましくも少し切なかった。
タンクバッグに花を突っ込んで菩提寺に向かうのも、もはや定番のスタイルである。
お約束として、サイドビューも写真に収める。
ちなみに今回のツーリングでは“冬季限定”シートカウルを外し、代わりに決して人間が座ることのない *2 タンデムシートを付けて、人間の代わりにシートバッグを置いた。
この安っぽい(実際に安モンだが)シートバッグは好きではないが、以前このブログにも書いたとおり、岩城滉一御大が今は亡きオートバイ番組で「カッパを持参しないヤツは『にわかライダー』」というゴ発言をされていたので、御大に「にわかライダー」呼ばわりされないよう、カッパを入れるためだけに取り付けた。
去年は奇をテラって“らしくない”花を選んだが、今年はオーソドックスなヤツにした。やっぱり仏花には「菊」が似合う。ま、薄紫色のヤツは、名前も知らないのだが。
母さん、この薄紫色の花、なんていうんでせうね?
ところで、「墓参りツーリング」なんて記事を書くのは私だけだろうと思って検索してみたら、結構な数のブログがヒットした。だが検索上位の記事をざっと見た限りでは、墓の写真を載せているブロガーは皆無であった。
ダメだなあ・・・。「墓参りツーリング」なのに、墓の写真を載せなくてどうする?
Googleローカルガイドで会津坂下町を盛り上げる
Googleローカルガイドの効用
私は普段から昼飯は食べないので、ツーリングだからといって食べるのは逆に調子が狂う。ただ、ブログネタとして取っつきやすい「食」を失うのは非常に痛い。
(しょうがない、会津坂下町の観光名所を撮っていくか・・・)
そう思っても、この町にそんなものはない。鉄骨の屋根で覆われた偉人の生家とか鉄筋コンクリート造りの天守閣とか、そういったわかりやすい“アイコン”は何もないのだ。そこで、「Googleローカルガイド」である。
GoogleローカルガイドとしてGoogleマップに載せる写真は、なにも観光名所である必要はない。その地域にある施設なら、商店でも学校でも町役場でも公民館でも何でもいい。その写真をアップすれば、ドコかのダレかが何かの拍子でそれを目にすることもあるだろう。
そして、すっかり疎遠にしていた故郷のことを思い出して、「久しぶりに田舎にでも行ってみるか」なんてことを思うかもしれない。
つまり、そんな何でもない施設であっても、出身者にとってはさまざまな思い出がある大切な場所なのだ。だから無用になったからといって、取り壊して更地にしてはいけないのである。
会津坂下駅
会津坂下駅は、ご覧のとおりの小さな田舎駅である。
10分ほど“滞在”していたが、駐車場に軽トラを駐めて何か必死に読んでいる爺さんを除いて、この駅を訪れる人間はひとりもなかった。
1日に来る電車は13本。1時間ではない、「1日」である。それも、上りと下りを合わせて13本である。おっと、「電車」ではなかった。未だに電化はされていないので、「ディーゼル車」である。それだと長くて言いにくいので、地元の人間は「汽車」と呼んでいる。
駅前には、春日八郎パイセンの銅像がある。Wikipediaによると2003年に建立されたらしいが、1日に6本しかない下り“汽車”を利用することはまずないので、私が目にしたのは初めてであった。
先輩、遅くなってすみません。
「もはや戦後ではない」が当たり前となって久しい、というか「戦後」が死語にさえなりつつある現在、その名前を覚えている人も急速に少なくなっているとは思うが、春日八郎パイセンは会津坂下町が生んだ戦後最大のスターであることに違いはない。
そんな春日八郎パイセンの銅像をバックに記念撮影。
坂下南小学校
私が7歳から12歳までの6年間を過ごした町立坂下小学校は、「坂下“南”小学校」という名前に変わっていた。1970年代当時は町内に7つもあった小学校が、たった2つに統廃合されたからだ。
二宮金次郎の銅像は昔からこの位置にあったが、校庭の片隅に飾られていた蒸気機関車は影も形もなくなっていた。その蒸気機関車はまるで、檻のような鉄製の柵で囲われていたが、そんなものは乗り越えるのが昭和のガキである。そこは、私たちの格好の遊び場であった(もちろん教師に見つかれば、こっぴどく叱られるのだが)。
いったい、いつの間に撤去されたのだろう?
平日ということで、校庭では運動会か何かの練習をしていた。5,6年生ぐらいだろうか。ただでさえ勝手に入るのは御法度なのに、冬物のダウンジャケットを着てオートバイ用のインナーキャップを被った、不審者オーラ全開の中年男が敷地内に入るワケにはいかないので、校門の外から校舎全体を撮影する。
この建物は私が入学した1974年当時、新築のできたてホヤホヤだったと記憶しているが、40年以上が過ぎた今でもそれほど古びた感じはしない。設計・施工が優れているのだろう。
後述の坂下体育館を撮影していたら、1年生だろうか、これから集団下校をするのだろう、ワラワラと校舎の前に集まりだしていた。
子供の命を奪うなんていう信じ難い非道を平気で行う畜生が、残念ながら一定数存在する世の中である。こうして複数のオトナ(例の事件のケースを考えればわかるように、ひとりでは危ない)がいっしょに付き添うというのは、とてもすばらしいことだと思う。
坂下南小学校のホームページを見ると、今年の1年生の児童数は「79人」。2~4年生より大幅に増えている。それでも私達の時代と比較すると半分ぐらいだが、町の寂れっぷりから受ける印象ではもっと少ないと思っていたので、(なんだ、けっこう多いんじゃん)という感じがする。
ところで、写真を見ていて初めて気づいたのだが、向かって右側の集団の中央付近に、こちらに向かって両手を挙げている(ように見える)女の子がいる(※要拡大)。
なんてかわいい子だ。将来はきっと、ステキな女性になることだろう。
坂下町民体育館
この、ちょっと変わった形をしたオンボロの建物は、町民体育館である。
ただの体育館ではない。以前、この記事▼にも書いたことがあるが、toshueno.hatenablog.com
今は亡き「会津坂下ライブカメラ」の映像に“主役”として映っていた、古くから町のカルチャーを支えてきた最重要施設である。
そしてこの辺り▼がライブカメラ映像の下の方に映っていた地点で、
今年の3月31日までは、この辺りに立ってさえいれば、タダで自分の姿を全世界にネット配信できたワケだ(小さく、控えめに)。
ちなみに、建物が低すぎるために電線に埋もれてしまってほとんど見えないが、かろうじて中央奥に見えるのが会津坂下町役場である。
坂下中学校
小学校は名前だけで校舎は変わっていないが、中学校は校舎も名前も変わってしまった。私が中学生だった1980年代前半にこの場所にあったのは、昭和30年代に建てられた当時でさえ古くさい建物だったが、十数年前に新しく建て替えられた。
その時点ではまだ春日八郎パイセンおよび私の母校である「会津坂下町立第二中学校」だったが、やがて第一中学校と統合されて「坂下中学校」となり、校門からその名前が刻まれたプレートは剥ぎ取られた。
それにしても平日だというのに、人の気配がまったくない。ひょっとして、ここさえも廃校になってしまったのだろうか?
あまりに心配になったので、イケナイこととは知りつつ、恐る恐る敷地内に“潜入”を試みた。なに、もし誰かに見つかってトガめられたら、堂々と「卒業生です、見学に来ました」と言い放てばいいのだ。
1人の人間に会うこともなく、玄関らしき場所にたどり着く。
スミズミまで清掃が行き届いたキレイなロビーでは、液晶ディスプレイが無人の空間に向かって虚しく情報を発信していた。
左側の壁には数々の賞状や「各委員会反省及び目標」が、
右側には生徒が描いたと思しきイラストの類が掲示されていた。
良かった。どうやら廃校にはなっていないようだ。
この後、M109Rに跨がって横を通り過ぎた時に気づいた。私が通っていた当時、校舎だった場所にある上の建物はサブ的な位置付けで、メインの校舎はその裏側に建っているのだ。もうめんどくさかったので戻らなかったけど。
▲2002年10月12日撮影:写真を撮ったのだから当然新しい校舎は見ていたのだが、何せ15年も前のことなのですっかり忘れていた。この時はまだ「坂下二中」だった。
それにしても残念なのは、学校名が変わったから当然校歌も変わってしまったのだろう、ということだ。
坂下二中校歌の作曲者は、春日八郎パイセン *3 だったのである。
(つづく)