2016年7月30日、正式名称は「第98回全国高等学校野球選手権神奈川大会」の準決勝2試合を、横浜スタジアムで見てきた。
パンクの恐怖を抱えたまま、ロングツーリングには出かけられない。 近年は仕事で疲弊してしまって、ただでさえ休日は家に引きこもりがちだ。新しいタイヤに履き替えて“安心”を手に入れるとともに、「せっかくタイヤを替えたんだから」という気持ちをモチベー…
自分で考えていた以上にオートバイに関する知識がプアで、思った以上に難儀しているヤマハ・NMAX紹介記事だが、それでも私は、あきらめずに書くのである。
原付二種のスクーターとは言え、ひさしぶりに買った「新車」なので愛したい。愛するためには、NMAXのことをいろいろと知っておく必要がある。 そんなわけで今回から2回に渡って、NMAXの各部分をひとつひとつ検証していく。
納車のときはヒト悶着あった (起こした) が、そんなことはNMAXには何の関係もない。納車から一夜明けた2016年7月18日(月)・「海の日」の早朝、ヤマハ・NMAXに“初乗り”してきたときのインプレッションについて書く。
2016年7月7日の七夕の夜に購入した「ヤマハ・NMAX」が、先日納車された。 クルマ (日産・スカイラインクーペ) と大型二輪 (スズキ・ブルバードM109R) に小型二輪が加わって、人生初の「8輪生活」が始まる。
2016年7月16日、私は東北自動車道を北に向かっていた。 ひさしぶりの三連休ということで重い腰を上げ、秋田県内でキャンプをする計画を立てたのだ。
戸塚に引っ越してきてから、初めての国政選挙(第24回参議院議員通常選挙)。 引越から2ヶ月が過ぎ、すっかり戸塚区民になりきった私は「この辺の投票所はどこなのかな?」などと、かみさんと話していた。
前回のつづきで、ヤマハ・NMAXを買いに行ったときの話。その後篇。 YSP横浜戸塚の雰囲気とか、支払に関するヨモヤマ話。
「朝晩のバス通勤が、どうにも心身になじまない」という話を前回書いた。 かみさんには「住所がわかるような記事を書くなボケ」と非難されたが、多くの人の目に触れているブログでもあるまいし、気にすることはない。
どうも、この頃はすっかりブログを書く気力がなくなった者です。書く気力がないのに、ブログを書いている。これ如何に。
例によって今年も5月下旬頃から仕事が忙しくなってきて、週末にツーリングに出かける気力・体力が残らなくなってきた。さらに今年は通勤時間が長くなったせいで、ブログを書く気力さえもない。
私は待った。ずっと待っていた。 Panasonicが、「サイクルゴリラ」の次期型を発売してくれる日を。
日経夕刊の山口恵以子さんのコラムを読んで、母との最後の食事を思い出した。それはまた、後悔で埋め尽くされた私の人生の中でも、とりわけ大きな後悔を伴う出来事なのである。
2016年4月30日に引越をしてから、はや1ヶ月が過ぎた5月30日15時頃。 シビレを切らして、1ヶ月前まで住んでいた賃貸マンションの管理会社である株式会社エイブルの「入居者様様向けお問合せフォーム」に書込みをした。
2016年5月27日(金)は、会社のイベントで新宿に行った。 新宿駅南口に「都会で手軽にバーベキュー」的な店があって、そこで行われたイベントである。
「今年は最低でも月に一度はオートバイに乗ろう」それが2016年のテーマであった。 ところが5月は、引越後のモロモロで時間が取られて・・・
横浜市戸塚区に引っ越してから、はや3週間が過ぎた。引っ越すまでは(戸塚かあぁ・・・)なんて思っていたが、「住めば都」とはよく言ったもので、慣れてくると、この土地はこの土地で良い面もいろいろある。
ケルヒャー初心者がハシゴ使って玄関の庇を掃除した、ただそれだけの話
伊藤整氏の「弟の日」という詩を、長年ずっと読みたくて仕方なかった。でも大昔にこの詩を書き留めたノートが先月末まで住んでいた賃貸マンションの押入の奥底に沈んでいたため、面倒が先に立って読みたい気持ちを抑えていた。
「あっ!」という間に、5月も5日の朝になってしまった。私のようにトシを取ると、誰でも時間の流れが速くなると思うが、環境が変わるとその加速度が増すようだ。
昨日 (2016年4月28日) は「明後日引越なんで」という口実をつかって早退した。新川崎駅から徒歩で帰宅するのはもうこれが最後なので、写真を撮りながら、のんびり帰り道を歩いた。
長年住み続けた川崎での日々も、いよいよ今週が最後になってしまった。「川崎ラプソディ」第3回目は、現在住んでいる賃貸マンションとは今週でオサラバするので、その場所を晒しつつ、周辺の「変わったこと、変わらないこと」について書く。
国道6号線に再び戻って、北上を続ける。相変わらず続く「二輪通行禁止」の電光掲示板は無視して、行けるところまで行くのだ。
塩屋埼灯台で出発の準備をしていると、1台の大型観光バスがやって来て老若男女さまざまな人達が一斉に駐車場に降りたち、閑散としていた周囲が一気に賑わった。
「福島県浜通り地方」と聞いて今日日すぐに連想するのは、悲しいかな、「被災地」そして「避難指示区域」という言葉である。 でも会津地方出身の私にとって、ガキの頃の浜通り地方は「海に恵まれた温暖な地域」というイメージであった。
「思い出も交えながら、残り少ない川崎での日々を語る」2回目。 今回は、自分に降りかかった災難も含めて、身近で起きた川崎の犯罪について書く。
「会津墓参りツーリング」の後篇。行き先は見事なまでに昨年と同じなのだが、やったことや感じたことは当然異なる。
というワケで、毎年春恒例の「会津墓参りツーリング」である。 気温が上がって、“ご老体”にムリなく遠出できるようになってからの最初のロング・ツーリング先は、「会津への墓参り」と決めているのである。
住宅ローンの本審査も無事パスして、15年と8ヶ月もの長きに渡って住み続けた川崎を離れることになった。